つぶやきよりチョイ長め

【別冊】Theノンフィクション

2年ぶり2回目のアレ。

2年ぶり2回目、まるで高校野球の甲子園出場のような表現であるが、いや~、まさかの2回目のコロナ感染だ。

症状が出始めたのが10月6日昼頃。身体がフワフワするあの感覚、最近の暑さ寒さの繰り返しで風邪だと思った。かかったかな?と思ったらパブロンでしょ、という訳で竹下景子の癒し薬を飲む(古ッ)。そして夜の10時頃、身体の火照りの奥~~に寒気を感じる。竹下景子薬が効かない?慌ててお熱を測る。アタシの家の体温計は、ピピッと鳴るやつではなく昔ながらの水銀入りのやつだ。(ちなみにこの水銀体温計は2021年から製造が終了している。)

5分経過、38度4分。へ?景子さん、なんとかして。その数字を見た途端、気絶するように眠る。

そして深夜、「う、ううぅぅ」という地獄の底から聞こえて来るような声で目が覚めた。自分がうなされている声だ。昭和の漫画に出て来る「う~ん、う~ん」の図と同じアレだ。これはあかんヤツだろと思いつつ、熱を測ってみると水銀が39度6分のラインまで達している。アタシ史上、最高の体温だ。四捨五入したら40度である。写真に残そうかとチラッと考えたが、そんな気力もない。

 

朝一でヘロヘロになりながらも掛かり付けの病院へ行く。検査結果、陽性。病院でもらった薬は、ただの風邪薬だ。もちろん、15000円ほど出せばナンチャラというコロナ感染症の特効薬を買える。しかし、ヘロヘロでもケチった。

症状は3日分もらった風邪薬で治った。しかし咳がモんのすごく、腹が筋肉痛だ。会社は1週間休む。

アタシが住まう県では、10月上旬のコロナ感染は下降していると出ており、流行している状況ではなかった。それまでマスクは付けずに過ごしていたが、手洗いと手指消毒は割と徹底していたつもりだった。そして過去にはワクチン5回も打ち、1回感染して自然免疫も獲得しているはずなのに、また感染してしまった。

どうやらこのウイルスというヤツは、どこにでも転がっているらしい。こやつは自分自身が繁殖すべく絶好の宿主が見つかれば、すかさず入り込んで来る。

結局、そうさせないためには、アタシ自身の免疫力を高めるしかないようだ。

~Fin~

 

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【哀悼】Stand by 爺.

とうとう、実家の愛猫「ちー」が逝った。

6月25日朝、2軒隣の徳井さんから「お宅のちーがウチの庭で死んでいる」と電話があったそうだ。

徳井さんの庭はちーのテリトリーで、食後は必ず散歩に行っていた。いつものルーティンの途中で生き絶えたと思われる。

ちーは、死ぬ2週間前くらいから家の中に入らなくなった。隣の空き地の土管の中で、じっとしていたそうだ。エサや水はわざわざ土管まで父が運んでいた。食べる量も日に日に少なくなっていたそうだ。

雨の日には寒かろうと家の中に連れて帰るが、なぜか落ち着かない様子ですぐ外に出ようとしていたという。

そして2~3日姿が見えなくなり、いつの間にか帰って来ている。そんなことが2回ほど続いた。自分の死に場所を探していたのだろうか。

そして、お別れの朝をむかえた。

父は、ちーをモンのすごく可愛いがっていた。我が子のように話し掛けてやり、エサを与え、抜け毛のケアをしてやり、同じ布団に眠り、日々を穏やかに過ごしていた。

母曰く、父は誰にも告げず、ひっそりと近くの裏山にちーを埋葬したとのこと。あの昭和の俺様男が、たった独りで墓穴を掘り埋葬し、手を合わせる姿が目に浮かぶ。きっと父は、泣いている姿を誰にも見せたくなかったのだろう。

ちーは13年も生きてくれた。ずっと父の「癒し」だった。アタシら子供や孫達と違う愛し方だった。

ちー、ありがとう。

叶うなら、もっと父の傍にいて欲しかった。

Stand by 爺.

 

~Fin~

 

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【クソ親父】一人親方だった父は、家でも独りだった。

昭和9年生まれの父。この夏で90歳になる。

背筋もしゃんとして、マンガに出てくるようなヨボヨボの爺さん、という感じでは全くない。高齢になると食が細くなるというが、そんなことはなく朝からご飯をおかわりする、そんな衰え知らずの父だ。まだまだ長生きしそう。

この父、ちゃっちきの大工だった。今のように建設会社に所属する作業員とは違い、父の時代は棟梁に弟子入りをしてそのまま棟梁の元で働くか、または数年で一人立ちをするかだった。父は後者だ。いわゆる一人親方であった。

昭和30年代~50年代は、建築バブルと言われる時代で父はよく働いていた。盆と正月くらいしか休んでいなかったのを覚えている。

父は、左手人差し指の第一関節より上が無い。電動ノコギリで「たたっ斬った」と言っていた。今のように労災でどうにかしようとか、そんな時代ではない。そして一人親方はそんな保障もない。子供のアタシは、この人差し指を撫でて痛かった?どのくらい痛かった?と何度も聞いた。手が荒れ、パックリ割れた指先や爪の中には松ヤニが入り込み真っ黒だった。この手でアタシは育てられたのだ。たくましく愛しい手だ。

こういう風に書くと、お涙頂戴のようになるが、いやいや全然、全く。

この父、アタシが子供の頃は酒癖が悪く、よく母に手を挙げ足も挙げていた。仕事でもこだわりが強いらしく、気に入らないと現場に行かない。更に飲酒運転で2回交通事故を起こしている。(当時、飲酒運転は一発免許取り消しではなかった)ようするにクソ親父だ。母には色々と苦労をかけていた。当時アタシは、この父があまり好きではなかった。そして、母とよくケンカをしていたし、兄もそんな父を相手にしていなかった。なので父は家の中でも、一人親方(独り)だった。

 

このアタシ、年齢を重ね経験とわずかな知恵が付き、(やっと)世の中が解り始めたが、この父って実は「スゴクね?」と思い始めた。

この人、自分で理想の家を設計し、働きながら資金を作り、自分でノコギリを使い、金槌で釘を打ち、マイホームを完成させた。夢を手に入れたのだ。

これって、今や死語の「男のロマン」なのではないか?一生の夢をナニゲに叶えているのだ。

今のアタシの歳には、父はすでに夢を叶えていた。それに比べ、今のアタシは何も手に入れていない。「クソ親父」なんてどの口で言うか!

この家の建設中、中学生のアタシは父の仕事ぶりを生まれて始めて見た。ちょうど二階へ上る階段を設置しているところだった。相当の力がいるのだろう。父の汗がタラタラと滴る。その汗がキラっと光った。そのキラっ、が数十年経った今も目に焼き付いている。

あのクソ親父が、自分の生業を見せてくれた。そして父はそれを当たり前とし、今も恩を着せることや自慢することは一切ない。

少し前「親ガチャ」という言葉が流行ったが、流行らせた人はきっと若い人達だろう。

アタシが「クソ親父」と言っていたのと同じように、年齢を重ねた時に親の有難みが解って来るはずだ。

お父さん、クソ親父って言ってゴメン。

 

~Fin~

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【その後】兄とケンカ別れしていたが、12年ぶりに和解した話

和解して、あれから1年が経った。

アタシら兄妹のその後を書き綴ろう。

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13年前、兄と大ゲンカをした。

「あんたを刺してアタシも死ぬ」という言葉も出た。

12年も接触を断った理由は何なのか。ここまで書いておきながら理由を避けるわけにはいかないだろう。

兄のギャンブル依存が原因だった。多額の借金を作り、両親に迷惑と心配を掛けていた。それを聞いてからの大ゲンカだった。

正直、この事はいまだに許せないし、一生許さん。

もともと、この兄という人は穏やかで優しい性格だった。こういう人は、いろいろと溜め込みやすいのだろうか、ストレスがギャンブルへ向かったようだ。弱い人だ。現在は、早くも孫が3人もおり、気持ちの行き先が孫達へと向かいギャンブルどころではないようだ。

 

そういう訳で、兄のいる実家には12年間全く寄り付かなかった。
親戚の葬式だろうが、姪(兄の娘)の結婚式であろうが、参列はするものの、こちらから声を掛けることは一切なかった。(両親と会う時は、アタシの自宅に呼び寄せていた。)

当時、両親は心の底からアタシらを心配していた。
両親からの泣きの説得と、そしていつ逝ってしまうかも分からない高齢の二人を安心させたいという気持ちから、アタシから譲歩した。


氷が溶けたあの日は、去年の5月連休だった。

外出先から帰ってきた兄に対し、アタシは「元気にしとったん?」と顔を引き攣らせながらも声を掛けた。(その時の周囲の張り詰めた空気感と、このセリフを言い終わった後のアタシの虚脱感はお解りいただけるだろうか・・・。)兄はアタシが帰省することを事前に聞いていたようだが、アタシが柔和な態度だったことに驚きを隠せないようだった。「お、おう・・・」と兄。

その日、12年ぶりに家族と食卓を囲んだ。その際、兄は少し酒が入ったのもあり「あの時は自分が悪かった」と、泣いて謝った。
それを聞いてアタシも猛烈に泣きそうになったが、あえて「そうね、分かってたらいいワ」とお茶らけて笑って見せた。

空白の12年が一気に縮まった。

横にいた両親もホッしたことだろう。


12年は長い。産まれた乳飲み子が中学生になるくらいの時の流れである。

兄はシワが増え、血糖値が高いだの尿酸値がどうのと、たっぷり蓄えた脂肪を撫でながら言う。アタシ自身も変わらないつもりでいたのに、当たり前だが確実に年を取った。相手を見て自分もそうなのだと感じる。

そして両親も然り。

 

それから、秋には母が圧迫骨折で入院。そして認知症の症状も出始めている。兄とは両親の事で話し合う機会が多くなった。

アタシは、これまでの時間を取り戻すかのように出来る限り実家へ帰省し、兄と両親との時間を作るようにしている。家族が揃って一緒に食事をする機会は、あと何回残されているのだろうか。

両親が逝った後、あれをすれば良かった、こうしてあげたかった、と後悔する時がきっと来るだろう。その中に、2人しかいない兄妹が縁を切っているという、こんな親不孝な後悔があるだろうか。

オチを言えば、1年前に兄と和解(仲直り)して良かったとつくづく思う。

これからの残された毎日が、家族との思い出に変わるのだ。

 

~Fin~

 

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【母の日】いつまでもオンナ 女 おんな

86歳の母。

少し前までは141cm、56kgだった。

片手に菓子パンを持ちつつ、痩せたい痩せたいと言っていたのを思い出す。

それがここ2年ほど、帯状疱疹・圧迫骨折により体重が10kgほど落ちて瘦せた。

食欲もあまりなかったらしい。

この体重から一気に瘦せると顔が萎んでしまう。すなわちシワが増えるのだ。

そんな落ち込んだ母を見て、父は「昔やっていた顔のマッサージをしろ」と、まるで美容部員のようなことを言ったらしい。

母は、オトコである父にそんな事を言われたもんだから、早速、お高いんでしょ?と言いたくなるような化粧品を買い、ここ数か月ほどマッサージにいそしんでいたらしい。

すると、あ~ら不思議。以前より顔にツヤが出てきたのだ。86歳にしては血色もいい。

「赤いバラのブーケ(父の日・母の日)」の写真

 

母は半年前からデイケア(リハビリ)に週2回通っている。行く時には、きちんと化粧をし服装も気を使い、鼻歌交じりでお迎えのバスに乗って行くそうだ。

高齢の母にとって、このような外出は非日常である。デイケアに行けば同世代の「女子」がいておしゃべりに花を咲かせている。

肌ツヤがいいのは、家からおしゃれをして外出をすることが要因で、それこそ生活に「ハリ」が出たのではないか。

アタシ思うに、

年齢を重ねても「女はオンナ」だ。89歳の父のちょっとしたひと言でキレイになれる「オンナ」なのだ。

鏡台に向かい口紅を塗る母は、子供の頃に見た母と少しも変わらない。

そんな「オンナ」である母が愛おしい。

 

~Fin~

 

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【閑話】ネコとおじいさん

「ネコとおじいさん」

以前このタイトルで、ホームレスのおじいさんとおじいさんを慕う白いネコの話を書いた。

 コレ ↓↓

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今回は、実家のネコ「ちー」と今年90歳になるアタシの父との話だ。

 

実家の「ちー」4回目登場!

 

ちーが危ない。もう13年生きているので身体が弱っている。

3月下旬、ちーが脳梗塞を発症した。数か月前からよく後ろ足で耳を掻いていたので、ノミダニの仕業と思っていた。動物病院の診察によると、そうではなく中耳炎を患っていたらしい。さらに奥の脳まで侵されてしまったらしく、そのことにより血管が詰まったということだ。

ちーは、人間の脳梗塞と同様に半身不随になり片足に力が入らない。なのでトイレに行かせるときは、父が抱き上げて連れていっている。

...と、いま普通にこれを書いているが、アタシにとっては父親が1匹のネコに対して、そんな優しさがあったのかと驚いている。

父は昭和の初期に生まれた。男ばかり4人兄弟の三男坊だ。なので甘えん坊の「オレ様」で育った人だ。世は男社会、また男尊女卑が甚だしい土地柄もあり、ようするに「自分が1番」の男だった。

そのこともあり、アタシが記憶する父はネコに対する愛情は全くなかったと言っていい。「汚い」「家を荒らす」「腐れ猫!」「捨ててこい!」こんな言葉を発しながら、ネコを足で蹴ったりする男だった。

 

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実家は、昔から常にネコが住んでいた。ネコと御縁があるとしか思えない。ノラが勝手に住み着いたり、人からもらったりしていた。

ちーは、保健所のネコの捕獲からギリギリに逃れたネコだった。すでに捕獲用の檻に入った状態で「ちょっと待ったーーっ!」と、それを見ていた従姉が救い出したのだ。「この猫、なんか光るものがあった。」とタレントのスカウトマンが言うようなセリフを吐いたのを思い出す。しかも贔屓目かもしれないが周りが引くほど賢かった。

過去のブログ↓↓

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そして可愛いらしさに家族全員メロメロだった。特に父はホントよく可愛がっている。

孫達が手を離れた寂しさもあり、代わりにちーを可愛がっているのかも知れない。

そしてちーも、可愛がってくれる人は誰なのか畜生ながらに解っている。

 

ちーは、2階の父の寝床まで片足が不自由ながらも、いつもの時間に寝に来るそうだ。ただの習慣なのか、または安心して眠れる場所が父の懐なのか...。

 

「ネコとおじいさん」

動物学的にも結びつかなそうな「種」の二人だが、ふんわりと平和な二人だ。

暖かな日の縁側に注ぐお日様のような雰囲気...

先のブログに書いた、ホームレスのおじいさんと白ネコのそれと同じだ。

13歳の老ネコ、そして90歳になる父。

いつまでもこの日だまりの中で過ごす日々が続いてほしい。

 

~Fin~

 

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【酒豪】たびたび酒に失敗したが、稀に成功した話

 

年齢を重ねるごとに、体力も内臓の状態も段々と老いていくのが分かる。ちょっとハードな事をすると寝ても疲れが取れないし、また体力を付けようと質の良い肉なんぞ食べたら下痢する。

20歳代なんて無敵だった。

仕事終わりに飲みに行き、徹夜で遊んでそのまま出勤しても全然シンドくなかった。

二日酔いしても昼頃には回復して、普通にランチにガッついていた、あの頃...。

 

アタシはお酒が強い。と、言ってもオンナの肝臓の割に、である。オンナの肝臓のアルコール処理力は、オトコのそれと比べ落ちる。

だから調子に乗ると痛い目にあうのだ。

若い頃は調子に乗っていた。ビールは水だった。飲めばミルク飲み人形の如く、即シッコでジャー。アルコール分解も早かった。

さすがに日本酒を1升空けた時は、カトちゃんの酔っぱらいコントのように千鳥足になる。そして、朝には布団の上がゲ■まみれの時もあった。

それでもは二日酔いはしなかった。今のアタシなら天に召されるはずだ。

 

あれは、アタシが花の盛り24~25歳くらいの出来事。

ある有名な飲み屋街にオンナの友人と出掛けた。そこはナンパ通りでも有名だ。

その友人もアタシと同じ、いやそれ以上に「飲み助」だった。

その通りをそぞろ歩いていると、「お姉さん、すいませぇん」と若いオトコから声を掛けられた。ナンパか?と思いきや飲み屋のキャッチだった。

それもホストクラブだと言う。「2000円で飲み放題、無制限だけど来ない?」とチャラチャラと誘う。

田舎モンのアタシは、危険信号が点滅する。

しかし飲み助の友人は「無制限の飲み放題?行く!」と即答した。

この友人はアホだけど賢かった。「一筆書け」と証拠を残させた。そうは言うても、オンナ二人だ。そんなに飲めまいと踏んだのだろう。そのキャッチ野郎はチャラチャラと書いた。

 

ホストクラブ、と言っても着いてみれば、今話題になっているアレのような雰囲気ではない。現在で言うなら「ガールズバー」のオトコ版だった。

カウンター越しにホストがいて、酒を飲みつつ会話をするといったスタイル。なので、余計な会話はいらんアタシらにとっては絶好の酒飲み場だった。

まずはビールで乾杯。若い五臓六腑に沁み渡る。当時は、発泡酒第三のビールなんてなかった時代なのでモノホンのビールだ。『美味しいラガーが飲みたいです』のキョンキョンのCMが懐かしい。

2杯目も何か知らんけど祝杯。あっさり3杯目も続く。ここらでアタシらは気付く。グラスがオシャレな小ぶりサイズなのでチビチビ飲んでてキリがない。

あのう、ジョッキに入れて貰えます?

軽く嫌な顔をされる。

さあ、器が変わった、飲み直しだ!

飲めや飲めや、やんや やんや!

ちょっとほろ酔いになると、お店側は「別料金だけどシャンパンでもいっとく?」なんて営業を仕掛けてくる。「んーん、いかなーい。おかわり~♪」とビールをたて続けに飲む飲む飲む。ビールに飽きてくると、あの頃の定番、コークハイと続く。アタシにとって、このコークハイという飲み物は、それこそ箸休め的な感覚の酒だ。永遠に飲んでいられる。薄めに出されると「濃い目で」とすかさず申し出る。飲み助の友人も、チューハイやら、カクテルやらピッチが速い。

アタシら二人は、周りが引いている雰囲気をツマミに、飲む飲む飲む。

アタシは、店側が酒屋に追加の仕入れをしていたのを垣間見た。

しかしながら無制限とはいいつつ朝までとはいかない。お会計2000円をきっちり支払い、きちんと終電に乗って帰った。約4時間、飲んだ飲んだ。

 

さて、なぜ2000円で飲み放題なのか訊ねた。ホストらは客を入店させるノルマが迫っており、2000円の餌で釣っていたのだという。釣られたアタシら二人は、洒落たカクテルの1~2杯で顔が赤くなるようなタイプに見えたのだろう。

無事にホストらのノルマは達成した。そしてアタシらも十分に酒を堪能した。ホストもアタシらも万々歳だ。みんな幸せだ!

 

一番のとばっちりは、あの日赤字だったであろうあのホストクラブだ。

 

酒は百薬の長と言う。

でも、ほどほどに。

 

・・・・・・・・・

さて余談だが、本日は4月1日。アタシのブログ開設1周年だ。最初の頃の勢いはなくなったが、地味に続いている。更新が少ないのに日々アクセスして頂いている皆様。しょーもないブログなのに本当に感謝感謝!!

 

 

【東日本大震災】3月11日のアタシ

転職回数が多いアタシ。

アタシは、ある東北の県庁出先機関で嘱託職員として採用された。

「出先」なので東北県外での採用だ。

それは2011年1月、あの震災が来る2ヵ月前だった。

業務内容は、その東北県の観光誘致、特産物の販路拡大、情報の発信が主だった。

前職で観光に携わっており、東北にも何度も訪ねた事があったので採用されたのだろう。

 

あの日は突然だった。

第一報は、NHKの速報だ。

テレビの上部に「速報かなり大きな揺れ」との文字が映し出された。正直、いつものことだろうと高を括っていた。

時間が経つに連れて、尋常ではない状況が伝えられる。

県職員は、現地県庁へ状況確認の連絡を入れている。が、固定電話、携帯電話、メールの送受信、一切繋がらず。

そんな中、アタシらはただ呆然と緊迫したテレビ中継を見ているだけだ。

津波が人を襲う。

家を飲み込む。

寒さと暗闇が身体と心を切り刻む。

自然の驚異をテレビで見ているだけで、遠くにいるアタシらは何も出来ない。なす術もない。

 

そんな中、離れていても当事者であるこの県の出先機関にマスコミがやって来る。

と言っても、現場の状況が分からないのに、当時の所長は「心配です」くらいしかコメントしようがない。

当日のNHKのカメラには、事務所内で心配そうにテレビ速報を見つめるアタシの後頭部が映っていた。

ここにはアンテナショップがあり、東北から物産の販売に業者さん達が来ていた。

家族が心配で心配で、半泣きだ。

直ぐに帰省しようにも、公共交通機関は途中で途切れている。

そこで知り合いから車を借り、高速道路と日本海側の国道を使い(東京周辺もマヒ状態)、不眠不休で運転し翌日の昼過ぎにはなんとかたどり着けたとのこと。家は半壊、でも家族は無事だった。

 

ある業者さんは、自宅工場を失くした。

でも生きているだけで何とかなるんだという、この方の言葉に説得力と悲しさがあった。

 

アタシは、なす術もなく業務終了時間となり、後ろ髪を引かれながらも帰宅。県職員らは来るはずもない現地からの連絡を待ち、一晩事務所で過ごしたようだ。

アタシは、その日は眠れなかった。テレビを見ても人ごととは思えない。もしかしたら、この仕事に就いていなければ、この大惨事について少し鈍感だったかもしれない。

 

その日以降、お役に立ちたいというボランティア経験者、なんだかの宗教、寄付の問い合わせ等様々な対応をした。

直ぐボランティアに行く!と、いきごんで来た人に、自衛隊もまだ現地に踏み入れていないので暫し待ってくれ、と宥める。

現地は寒いだろうから、と古着を山ほど持参する人もいた。(まだ送る手段もないのに)

気持ちも分かるし有難いが、現時点では何も出来ない。

そう言えば、近くに事務所を構える某衆議院議員SNSで寄付を募ったが、その事務所の前には衣類や雑貨が山ほど積んであり、秘書らしき人が茫然としていたのを垣間見たが、どうやって送ったのだろうか(その費用はどうなった?)。

 

あの日の出来事は、13年経った今でも鮮明に記憶している。

 

生涯、この日を忘れない。  

合掌

 

【自白】風呂でオシッコをしてしまう癖を止められない話

タイトルの件、もうね、パブロフの犬状態ですわ。

 

レベル50代にして、まだこれが抜けない。

アタシが住んでいるマンションは、お風呂とトイレは繋がっており、トイレを済ませて3歩で浴室に行ける構造だ。

なのに、シャワーを浴び始めるとなんだかムズムズしてくるのである。さっきしたばっかりなのに、数滴出ちゃう。

身体や髪を洗う間も、ムズムズするので出しちゃう。

一応申し上げるが「頻尿」や「多尿症」ではない。

 

アタシがまだ御幼少の頃、母から「アンタ、いまオシッコしたね?!」と叱られた...(遠い目)

バレると叱られると思うと、ますます我慢できなくなる。

 

  



 

修学旅行の時は大浴場に入るギリギリにトイレに行き、耐えに耐え2~3滴に押さえた。

添乗員時代、宿泊地が温泉だったときは夜中に大浴場へ行き、周りに誰もいないのを良いことに、、、いたしました。(お縄を頂戴します)

 

この国は神の国と言われている。
八百万の神々がいる国だ。
太陽も山も水も岩も木も空も、流行歌にあるトイレの神様も色々な神様が守ってくださっている。
と、いうことは「風呂の神様」も然りだ。


なので、そのお風呂の神様に粗相がないように、何気なく鼻歌でも歌いシャワーを全開に流しながら「やってません」顔で、、、やる。

 

ここ10年以上は、他人と風呂に入ることがなく過ごして来た。

というか、この癖が治らない限り他人と風呂に入れないのだ。

 

原因は何なのか?

ただの幼児性か?

パブロフの犬のように畜生に成り下がっているのか?

 

 

・・・ヒンシュク、上等。

 

~Fin~

【番外編】1997年 在日朝鮮人団体ツアーin韓国

 

韓国添乗のアナザーストーリーを軽く一つ。

 👇️本編コレ

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3日間のツアー中、2日目の夕方から最終日のホテルチェックアウト時間まで、お客さん方は自由行動になっていた。こういう時の添乗員は、次回の添乗のために現地情報を取り入れる時間に充てる、ようするにお勉強の時間だ。当時はインターネットのない時代だったので、「地球の迷い方歩き方」などの市販のガイドブックや、自分の足で現場の情報を得ていた。

ちなみに、新人の頃は仕事をアサインされたらポンと放り出される(添乗に出される)。後は自分自身で現地を調べたり、先輩添乗員にレクチャーを受けるくらいで、不安なまま出発していた。でもお客の前では「何度も来てますけど、ナニカ?」という引き攣れた余裕顔でいなければならない。

さて、この時は担当の現地ガイドが街を案内すると申し出てくれた。これは嬉しい!どの国でもそうだが、現地ガイドと仲良くなるとメリットが多い!

前回のブログで書いた、歴史史料館でツアー客とケンカしたのはこのガイドである。

 

いざ出発♪と街を歩き始めたとたん、そのガイドがアタシの腕に腕を絡めて来た。「ひぃ、まさかのレ○?」と、全くその気のないアタシは、ガイドに失礼なほど腕をふりほどいてしまった。

違うのだ。これが慣習の違い。この国はオンナ同士でも、まるで恋人のように腕を組んで歩くのが普通なのだという。これが友情の表現なんだと。そう言われると無下に振り払うことが出来ないので、なすがままのアタシ。(ちょっとイヤ)

 

今回のツアーには入っていない有名処の観光地を一通り見て周り、ガイドの愚痴も聞き、最後に韓国名物「垢すり」に行こうという話になった。

現地の人が行く「本場」の垢すりだ。おしゃれなエステとかスパというものとは全然違う。日本の銭湯みたいな感じで庶民的。

まず、信じられないくらいにアッツイ風呂に入る。熱湯風呂だ。「韓国人はこのくらい普通に入るよ。早く早く!」と誘う。(押すなよ、絶対!押すよ)その後、水風呂に入る。これを数回繰り返す。そうすることで肌がふやけてくる。

そして手術台のようなベッドに真っ裸で横たわる。これぞまな板の鯉。年季が入ったおばちゃんの垢すり人が、垢すりタオルやら何やらでワシワシこすってくれる。腕も足も背中も、そして恥ずかしい部分ギリギリまでワシワシしてくれる。ちょっとだけ痛い。でもなかなかの熟練技だ。そして出るわ出るわ、消しゴムカスのような垢が。ひと皮剥けたとはこのことだ。この死んだ細胞でもう一人のアタシが出来上がるのでは。

そして最後にキュウリのすりおろしを顔に塗ったくりパックまでもやってくれた。

これぞ韓国の下町の垢すりだ。

さすがにこんだけやれば肌のザラつきがなくなり、数日は肌の艶が良かった。

確かあの当時、1000円か1500円くらいでやってもらった記憶がある。物価の違いもありお手頃価格だった。

 

27年前って、日本と韓国はまだまだ文化交流が今ほどは確立していなかった時代だ。

2000年以降、「冬のソナタ」あたりでソロリソロリと交流し始め、「韓流」という言葉が出始めたのもこの頃だ。そして令和の今、韓国の若者がワンサカ日本を訪れている。近所のドン・キホーテのレジや飲食店は常に行列だ。(たくさんお金使ってね♡)

逆に日本の若者もK-POPや韓流ドラマに熱狂している。文化交流バンザイだ。

 

嗚呼、春になったら韓国へ旅に出るか・・・。(というか、先にブログ更新せいっちゅーねん)

 

~Fin~

【添乗】1997年 在日朝鮮人団体ツアーin韓国

この日出ずる国に外国人観光客がワンサカやって来ている。

Nipponの文化に触れてみたい、和食を食べたい、made in Japanのアレを買いたい、と言って頂いている外国人の皆様、日本国小市民代表として御礼申し上げます。どんどんお金を落として日本経済を回してチョーダイ!

そういう観光客を目を細めて見ていると、添乗員を生業としていた時のことを思い出す。

1997年、韓国への添乗だ。

それは、某県の在日朝鮮人で形成された「同包」の団体だった。人数は妻同伴の合計40名。

なので、パスポートは日本国のものではない。

そして出入国カードには「president」と記入すべく会社経営者の集まり、いわゆる日本で成功した方達だ。

    

ツアーは韓国3日間。

旅行会社も添乗員も、このような一個団体のツアーは、募集型のツアーよりも3倍は気を使う。

初日、国際線ターミナルで航空券を渡す際に名前を読み上げるのだが、朝鮮名って英語で書かれると読みづらいし、舌を噛みそうだ。

出入国カードの記入について全員を前に説明をするのだが、戸惑ったのが、同行の奥様方は日本語は流暢に話せるが、漢字の読み書きが出来ない方がいたということ。

戦中戦後のあの当時の日本では、在日朝鮮人の方にとって学校で勉強をする事は二の次で、生きて行くだけで精一杯だったのだろう。

1997年の韓国は、仁川国際空港はまだ開港しておらず「金浦国際空港」へ到着。その空港は、当時の大阪伊丹空港に似た感じで、規模もそのくらいの大きさだったように記憶する。到着ロビーで日本語ペラッペラの現地ガイド(女性)と合流。

 

当時の韓国(ソウル)の街は、近代的で日本にもよくある「都市」の風景だ。ちょっと車を走らせると田舎の風景になる。こういうところはあまり日本と変わらない。それに顔や体系も日本人とあまり違いがないため、本当にここは外国か?と思わせる。ただ、街の看板や標識がハングルばかりであること、そして車が右左反対走行であること、こういうので異国にいるんだなぁと感じる。

ソウルの中心地に入れば渋滞がすんごいし、みんな車の運転が荒いのでいつ事故を起こすかハラハラもんだった。

 

さて、このツアーは「統一展望台から祖国を偲ぶ」というのがメインだった。

日本と北朝鮮は、国交がないため日本からは簡単には行けない。なので韓国側から祖国を偲ぶ。

戦後、色々な事情があり、日本で生活することを選んだ在日朝鮮人御一行は、故郷が目の前にあるのにここから眺めるだけだ。泣いている方もいる。

御存じの通り、朝鮮両国は未だに休戦中だ。同じ民族なのに。日本でいえば、名古屋あたりを国境として、東と西とで戦争をするようなもんだ。

当時の統一展望台には、露天のお土産店があり、ゴザを敷いて手作り人形や、絵葉書、キーホルダーのような土産を並べ、地元の婆ちゃん達が売っていた。

アタシは、現地ガイドに通訳してもらい、おチャらけて婆ちゃん達を笑わせた。「こんなに気軽に話した日本人は初めてだ。」と婆ちゃんが言っているとガイドが笑う。開かれた令和とは違い、当時は日本人観光客も今ほど多くはなく、ましてや露店のお婆ちゃん達に話しかける日本人は少なかったのだろう。

      

次の観光は、歴史史料館だ。具体的にどこの史料館かは記憶がないが、朝鮮半島における歴史的な史料を展示している史料館だ。ここでは、現地ガイドが説明をする。

・・・んで、ここでひと悶着あった。

歴史的な史料を展示している⇒ 韓国人ガイドが韓国寄りな説明をする

北朝鮮出身者がどう思うか・・・想像してほしい。御一行は、史料の説明に一つ一つ反論する。現地ガイドは涙目だ。アタシも間に入りたいが、朝鮮語が全く分からない。

改めて申し上げるが、参加者は日本で成功した社長さん達だ。苦労をして会社を築き成功した人達だ。物申し方が凄まじい。

その御一行のオーガナイザーと相談し、途中でその史料館を出ることとなった。そもそもどうして行程にこの史料館を入れたのか!(旅行会社の担当者を恨む)

ホテルへ向かうバス車内でも喧々囂々の騒ぎであった。その現地ガイドもなかなかの強気な女性だったため収まらない。間に立つ添乗員(アタシ)も頼りないこと(トホホ)

帰国後、旅行会社の担当に報告(苦情)を申し出たのは言うまでもない。

当時、アタシもまだ若く、そして知識が不足していたのもあり、日本、韓国、北朝鮮の複雑な関係を理解しないまま添乗していたが、この年齢になってあの添乗の難しさを感じ入ることができる。

ツアーの参加者は、良い人がほどんどだった。奥様方も豪快で優しい(けど気が強い 笑)。今思い出してみれば、みんな凛とした人が多かったな。

あの当時、殆どの方は60歳代だったが今もお元気だろうか。

 

~ Fin ~

 

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【5回目ワクチン】副反応経過記録 

夏なのか秋なのか分からない日々が続いた。

雨乞いが必要か?と思わせるほど雨に恵まれず、お肌は乾燥でバリバリ。こうなると、間違いなくアレが流行り出すだろう。

一世風靡した「新型コロナ感染症」だ。

と、思いきや3年以上の無菌状態であったニンゲン界ではそれだけではなく、いろんな感染症が流行しているらしい。

とりあえず、両親が高齢であるため、帰省した時に都会からコレを持ち帰ってはいかんと思い、5回目のワクチン接種(全ファイザー製)をした。

   

11月1日 朝1番に予約が取れたのはラッキー。朝食はいつも通り、納豆ご飯に具沢山みそ汁を食し、水分もたっぷり目に補給してお注射に備えた。

9:15頃 60歳代前半、白髪の優しそうなセンセーと軽く会話をしている約3秒で接種終了。針刺さった?というくらいに肌感覚が全くない。なかなかの熟練だ。

その日は通常勤務、ワクチン打ったよ~、と聞かれてもいないのにわざわざ話題を持ち込む面倒なヤツを演じた。

夕方16:00頃、注射した方の肩が軽くだるさを感じる。このだるさは時間が経つに連れてジワジワ痛みに変わる。筋トレをした次の日に出る筋肉痛にも似た痛み方だ。

帰宅後、夕食 この日は焼きそばとビールという、大阪に赴任していた時と同じメニューだ。いつも通りうまい!半熟卵を乗せるのがたまらなく好き。マジ好き。

22:00頃 風呂に入ろうと、Tシャツを万歳する体制で脱ごうとすると、左腕がかなり痛い。この痛みは、自分では完治したと信じ切っている「五十肩」と少し似ている。風呂上りは水をたっぷり目に飲む。

23:30頃 ベッドに入る。ワンツースリーで寝付く。

01:00頃 体の異変に気付き、目が覚める。異変とは「寒さ」だ。このガタガタ震える寒さは「お熱」が出る前兆だ。

ワクチン接種をして16時間後にこの副反応が出始めた。熱を測ると、7度9分。まだこれから熱が上がるのだろう。また、腕の痛みもMAXで寝返りができない。(やはりこの痛みは五十肩に似ている)それから自宅にあった「カロナール」を水多めに飲む。

飲んで安心したのか、はたまた発熱による体力回復のために身体が休息を求めているのか、またもや3秒で寝付く。

 

朝、いつもの時間にアラームが鳴る。

熱は? ない。

むしろ、空腹さえ感じる。寝ている間に、身体が熱に耐えワクチン反応に耐え、頑張った証だろう。まさしく、アニメ「はたらく細胞!!」の世界だ。

 

ワクチン接種して熱出た、だけのブログが1000文字を超えてしまった。

 

~Fin~

 

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【愛の劇場】89歳と86歳のちくわ(後編)

⇒前編からの続き

【愛の劇場】89歳と86歳のちくわ(前編) - つぶやきよりチョイ長め

 

この入院騒ぎで、いろいろと考えさせられることがあった。親って大事だよね、という定番の感情だけではない。

年齢を重ね皺だらけても、母は「女性」なんだなということ。

その病棟は、起床したら寝間着から普段着に着替えるようになっており、入院中でも患者をだらけさせず、少しの緊張感を持たせる体制になっていた。母は髪を整え、薄っすら化粧をし、まずまずの服に着替え、アタシら面会人を迎えた。

面会に来たアタシは、マスクの下はドスッピンだ。母のこういうキチンしたところは見習わないといけない。年を取っても「女性」であることを忘れてはいけない。

 

10月中旬、そろそろ退院かという話が出始める。退院後のリハビリを通院にするか、又はデイケアに通うかという話になった。
母は言った。「退院したら暫くはお父さんと一緒に過ごしたい。デイケアにお世話になるのは少し日を置いてからにしたい。」と。
これを86歳の母は恥ずかし気もなく言うのだ。

え、これって両想いやん・・・。

両親は見合い結婚だった。なので恋愛感情たっぷりで結婚したわけではない。

それが、この騒ぎで二人の愛情というか、絆というか、二人にしかない何かの感情が湧き出て来たような気がしてならない。

アタシは、親の「男と女」という部分を見たくないと思っていたし、見た事もなかった。「男と女」ではなく、「お父さんとお母さん」であって欲しかった。

それが、今の二人の愛情の湧き出し方は「男と女」を超えた「熟した絆」とでも言おうか、なんとも言えない微笑ましさがあるのだ。

    「バレンタインに使われやすいハート」の写真

さて、病院の提案で回復状況が良かったので退院を早めるという話があがった。でも延びた。

延びた理由は、腰椎の容態が悪いという訳ではなく、入院中に安静にし過ぎて足の筋肉が減り、足元がおぼつかなくなったからだ。

そこで、足のリハビリを強化しようというわけだ。

一度退院が決まりそうな時は、父の顔がパァと輝いた。そして退院が延びた時は、またまた肩を落とした。⤵(←この記号のようなガッカリの仕方)

入院中は、母なりに日々のリハビリを頑張ったようで、入院する以前のレベルまで歩行ができるようになった。

そして病院の食事も効果があったのだろう。食事と筋トレ(リハビリ)は、やはり繋がっているんだなぁとつくづく思う。

 

あれから無事に退院し、また日常が戻った。

以前、父に「お母さんが退院したら、お父さんがしっかり守らなよ!」と言うと「ガッテン承知の助」と昭和的な回答が戻って来たので大丈夫だろう。(軽く「オレ様」を感じたのは気のせいだろうか?)

母に聞いても、あれから父はかなり気を使ってくれているようだ。

 

 

 

 

 

が!

 

先日、実家へ電話を入れると、何やらケンカをしたらしい。

母が、父が好きな黒いちくわ(いわし入り)ではなく、白いちくわ(たら入り)を買ってきた、というしょーーーーーーーもない諍いだった。

 

 ~ Fin ~

 

 

【愛の劇場】89歳と86歳のちくわ(前編)

母が入院した。
高齢者によくある「腰椎圧迫骨折」だ。

この話は父と母のしょーーーーーもないケンカから始まったものだ。


ケンカの原因は「ちくわ」だ。
ちくわの賞味期限が2~3日前に切れていて、父は「そんなもんは食べん!」と言い、母は、「パーシャルに入れていたから大丈夫!」という、マジでしょーもない諍いがあったらしい。
冷蔵庫の前で、あーだこーだケンカになり、父が母の肩を押したことにより、片足に脳梗塞の後遺症がある母が転んだ、という経緯だ。


肩を押した、と言っても漫才師が「ナンデヤねん」と相方を裏手でツッコむ程度の緩さだったらしいが、それでも母は踏ん張れず転んだという。

そう言う訳で、9月から母の入院生活が始まった。
最初は、ベッドから起き上がるのにヒーヒー言っていたが、ひと月ほどで痛みが無くなったようだ。

腰の痛みは無くなったのだが、年寄りが入院するとあまり活動しなくなるので、日に日に足の筋肉量が減り歩けなくなるパターンが多い。なので相当リハビリをしっかりしないと寝たきりになってしまう。


ちなみに、以前のブログに母の痴呆が始まった、と書いたが、あれからは進行していない。

あの後、補聴器を付けるようになり、それ以降は以前のハツラツさが戻ってきたようにも見える。

 


母の面会に行くと、割と元気で非日常を楽しんでいるようだった。

食の細い母にとって、病院の食事の種類の多さに戸惑っていたようだが、骨や筋肉のために無理にでも食べるようにしていたらしい。少し顔色が良くなっているようにも見える。

 

さて、母が入院してからの父だが、まるで人が変わったように元気がなくなった。

自分のせいで母を骨折させた事と、その事をアタシら子供に責められるわで、マンガのようにションボリしていた。
そして、なんと言っても家に話相手がいないという寂しさもあるらしい。もちろん、他にも家族はいるが父にとって母はオンリー1なのだ。

急遽帰省したアタシに父はこう言った。「さびしい・・・」と。
「こんなになったのは、お父さんのせいだから仕方ない!」とぶつけると、「もうそれを言うな。オレの方が死んだ方がましだ。」と言う。


父は昭和初期生まれ、しかも男4人兄弟の三男坊で育ち、「オレ様」で過ごして来ていた。15年ほど前に母が脳梗塞で入院した時も、あまりそれと変わらずにいたが、今度ばかりはオレ様の影はなくなった。

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来年90歳になる父は、車も普通に運転する。耳が少々遠いが、とっても元気な89歳だ。
母の面会に行くと、父はとても嬉しそうだ。その嬉しさを隠そうともしない。帰る前は母の腕や顔をさすり、手を握ってから帰る。病室を出る時は、必ず振り返る。
そんな愛情を見せる父親をこれまで見た事がなかった。相当、オンリー1である母が恋しいのだろう。

 

入院中、アタシは母とよく電話をした。その電話で、父のションボリした肩の落とし方と、母への恋しがり方を面白おかしく話して聞かせた。母は少しテレなからも嬉しそうだった。

 後編へ続く ☟

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📩退職する西田君・愛を社内日報に書いて全社員に一斉送信した話

皆さんの会社、日報、週報、月報って習わし、まだあります?

管理者にとっては、これがあると個々の仕事の進捗状況が管理しやすいだろうし、こちら側も日々の反省と今後の展開を改めて確認できるので、営業日報なるものはきっと良い方法なのだろう。(知らんけど)

実はこのアタクシ、どの会社に勤めてもアタシが書いた日報は評判がよかった。
解りやすいとか、しっかりした内容だとかのレベルではなく、ただ「面白い」という理由でだ。

進捗状況を堅苦しい用語で報告をする、といったようなド定番のみならず、営業先での出来事や担当者の様子、また派遣スタッフの派遣先での仕事ぶりなどを「山野 節」で書いていたからだろう。

なので、上司の上の上のやんごとない人達(役員)も、日々アタシの日報が送信されると一番に開いて見る、というほど上層部で有名だった。
「日刊 山野」と名付けられたくらいだ。

さてタイトルの件、現在より2つ前の会社での話。
アタシは転職が多いという話はチョイチョイ書いてきた。
この話は「働き方改革」という言葉が世に出る前のこと。


転職先は、アタシより年下の上司や社員が多かった。(そりゃそうだ)

その会社に「西田君(仮名)」という当時28歳の男性がいた。この西田君、元ドヤンキーで中卒(高校中退)だった。バイトを転々とし、25歳でこの会社に入ったという。
そんな経歴の西田君がこの会社に入れた理由は、「何でもやります!」「気合しかありません!」と面接の時に何度も何度も繰り返し訴えたからだという。

アタシがこの会社に転職したての頃、この西田君がアタシの教育係(?)として付いてくれた。最初の頃、アタシは西田君を下に見ていた。中卒でヤンキーだったからではない。社会人としての常識がなかったからだ。

アタシは、彼が持っている曲がった常識を指摘し注意した。そうなると西田君も先輩としてのプライドが出る。そして二人は険悪になる。


それでも二人セットで営業をした。

飛び込み、テレアポの件数のノルマがある。

アタシらは年齢差があるので逆に通じやすかったのか、幸いなことに営業活動がうまく行き業績が上がって行った。そんな中、二人で飲みに行く機会も増えた。話してみると、アタシらは意外と気が合う。笑いのツボも同じだった。
そして西田君の人となりを好きになっていった。(LOVEじゃないよ)

横でこの人を見ていると、営業先の担当者に信頼されている(可愛がられている)、

若いながらも他の社員に頼りにされている、

失敗してもへこたれない精神、

そして、お母さんが早くに亡くなって、バアちゃん子で優しいところ。

ヤンキー時代は、相当な悪いことをやってて「自分はクズでした」という言葉を気持ちよく吐き出す素直さ。

兄は高校教師、弟は高級公務員なので、実は西田君も地アタマは良いのだ。そして誰にでも分け隔てなく接するこの人は、会社内でも人気者だった。

そんな日々が続いたが、ある日、西田君が退職するという。理由は、詳しくは言わなかったがだいたい分かる。
この会社はブラックに近い、グレーだったからだ。

ま、世の会社なんてそんなもんだろう。当時、昭和産のアタシにとってはサービス残業パワハラなんてお茶の子だった。


しかし、若い西田君は違う。もう「何でもやります、気合です!」と言っていた、あの面接時の西田君ではない。中卒でバイトしか経験がなかった彼も「知恵」が付いたのだろう。元々アタマの良い人だから、この会社の矛盾が分かり始めたのだ。

西田君が退職する。

残念に思う気持ちと、この伸び盛りの若人はこんな会社にいてはいけない、という送り出す気持ちとが交差する。

 

 

少し会社に襟を正してもらおうと、この企みを考えたのだ。

 

 

そして日報に、西田君が退職することでどれだけマイナスになるのか、クライアントに信頼され、また社内でも好かれていたかを、会社に対するイヤミの言葉を含め、2000文字ほどの文章に綴り、下書きに置いた。

 

西田君の最終出勤日。

18時ジャストに一斉送信した。

通常日報は上役に送るのだが、この日は全社員に送った。

社内はザワついた。

しかし、やんごとない人達(役員)はダンマリだった。

 

 

そして主役の西田君はというと

あちらの席で「苦笑い」をしていた・・・。