つぶやきよりチョイ長め

【別冊】Theノンフィクション

【宅建2025】中年女が1400円で宅建に合格した話

本日11月26日(水)宅地建物取引士の資格試験合格発表の日である。

今年の受験者24万5千人(合格者4万5千人)合格率18.7%

てなわけで、このアタクシ合格いたしました!初学で独学、しかもかかった費用1400円というコスパの良さで。

このタイミングで巷では、「この方法で合格しました!」的な承認欲求丸出しものが多く見受けられるが、ハイハイッそれにアタシも乗っかりまする。

この書き出しは本日付で書いているが、これ以降は試験当日(10月19日)から1か月かけて書いたものである。

もちろん不合格だった場合、1か月も時間を費やしたこのブログはお払い箱に保存され、日の目を見ることはなかったのである。(THE小心者)

 

《もくじ》

 

【基本情報】

  • 今年の受験者は約24万5千人
  • 合格率は例年15~18%
  • 受験科目:権利関係(民法など)・宅建業法・法令上の制限・税金関連、土地・建物など何やかんやいっぱい。
  • 受験資格:なし(年齢・学歴・国籍・不動産実務経験も不要)
  • 宅地建物取引士(宅建士)は国家資格

【試験勉強費用内訳】

  • 2021年度版 中古テキスト(初学者向け入門書の薄いヤツ)→ブックオフで200円
  • 2019年度版 中古問題集→ブックオフ200円
  • YouTube(無料チャンネル2つに厳選)→ 0円
  • 宅建学習サイト①(宅建試験ドットコム)→ 0円(課金なし)  
  • 宅建学習サイト②(幸せに宅建に合格する方法)→0円(課金なし)
  • 2024年度版 中古直前予想模試→ ブックオフ1000円 
  • ネット上の無料模試→ 0円

以上 合計1400円也 (受験料8200円別途)

 

【試験勉強スタート時】

・2025年2月試験勉強スタート 

・不動産に関する経験:なし 

・法律に関する経験:人材会社勤務の際、民法を少~しカジったことはあるが、他の法律は知識0

・知能:ほぼ高卒(最終学歴:医療系専門学校卒)

 

【試験勉強の方法】

事前に色々と調べたが、この資格試験は「権利(民法など)」と「宅建業法」がミソであることに行きついた。なんせ権利(民法など)で14点、宅建業法で20点、50点満点中34点もこの2科目で稼げるのだ!なので、この二つは徹底的に勉強した。そして他の科目も捨て問にはせず満遍なく勉強した。

 

《権利(民法など)》

試験勉強は「民法」から始めることにした。なぜならば民法は「理解」することが重要で、実際に過去の試験問題を読んでみると、コリャ暗記だけでは太刀打ちできん。初学者で、しかもボンクラのアタシには理解するまで相当な時間かかると思ったからだ。

取り敢えず、200円で購入した中古の初心者向け入門書と供に、民法に特化したYouTube無料動画(郷原豊茂のごーちゃんねる)を項目別で視聴する。このチャンネルの郷原氏は、資格学校の元講師で、初学のアタシには理解しやすかった。ちなみに、この200円テキストはあくまでも入門書なのでやはり情報料が少ない。なので、このチャンネルや問題集の解説で仕入れた情報は、このテキストに書き込んだり重要事項は付箋に記入して貼り付けた。そして動画の視聴後は速攻で問題を解く。問題集は200円中古問題集。更にその後、宅建試験ドットコムというサイトの一問一答をすかさず解き、なぜそうなるのか解説を熟読する。この宅建試験ドットコムの解説は「神」だ。解説の欄に民法の条文もリンクされており、このサイトはテキストの代わりに使えた。サイト管理者に申し訳ないが課金なしで充分役に立った。

テキスト読む→動画を見る→問題を解く、この繰り返しを毎日毎日毎日毎日毎日やる。そうすると、あ~ら不思議、初学者でもイミフの民法が理解が深まる時がくるのである。正直、腑に落ちるまでこの作業は3か月はかかった。そりゃそうだ。

 

宅建業法 他》

次に、最重要科目の「宅建業法」の勉強は、民法の「理解」というより「暗記」が重視される科目だ。しかも完璧に。アタシが購入した200円テキストは、何度も言うが入門書なのでいろはの「い」しか載っていない。よって宅建業法においてはテキストを、、、なっなんと!「自作」した。それも試験に出題率が高いAランクのところだけをピックアップしてノートに記入していく。過去問の解説で重要事項があれば、ノートにドンドン追加して記入していく。気が長い話かとお思いだろうが、意外と負担にはならなかった。土日にこの自作ノート作り、昼休みや帰宅後には過去問を解いてこのノートを見て復習する。これを全項目1周するのにだいたい2か月くらいかけた。Aランク事項をノートにまとめ、更に問題を解くので自然にアタマに入っていった。

その出題率が高いAランクの情報源はYouTubeである。宅建に関わるチャンネルはありがたいことにメチャクチャ多い!その中で選んだのは、「宅建一発合格@れくお」というチャンネル。このチャンネルは、過去問の出題傾向が高いものばかり説明してくれている。このチャンネルを一時停止して重要事項をノートに書き写す、というメッチャ面倒な作業をする。いやいや、これが案外頭に入ってくるのだよ。

まとめると、動画を視聴する→まあまあ理解する→もう一度視聴し一時停止しながら重要事項をノートに書き写す→理解度が高まる→速攻、問題を解く(ほほう、こういう問題の出し方なのかぁ~と思う)→間違えても解説を熟読し理解する。→記憶に残る!!

更に、問題の解説に大切なことが書かれていれば自作ノートに書き足す。この繰りかえし・・・メンドクサ、でしょうね。しかし、本来の「独学」とはこういう事をいうのではないだろうか?

そして、都市計画法建築基準法などの「法令上の制限」、不動産取得税などの「税」、「土地・建物」においても、同じくこの方法でノートを作り、ひたすら過去問を解いた。

結果的に、この自作テキスト(ノート)に記入されたものは全部頭に入った。そしてこのノートは試験開始時間ギリギリまで常に持ちまわることになる。問題を解く際に「あのページのあの辺に書いてあるアレね」という風に、脳ミソにそのページがスクショされた状態までに至った。

 

【学習期間振り返り】

2月~7月までは、権利(民法など)・宅建業法・法令上の制限を集中して勉強。(ひたすら動画と自作テキスト作り+過去問を解く)

8月からやっと税、土地建物の暗記に入る。

9月は、過去の試験問題を毎日1年分(休日には2年分)ひたすら解き、解説を熟読する。

本番1ケ月前、試験に慣れるために、中古で買った2024年度版直前模試4回、ネットで拾った0円模試3種類を自宅で受ける。(資格の学校などで行われる有料の模試には参加していない。)

 

【かかった勉強時間】 

正直、計っていないので分からない。ただ今年2月からほぼ毎日机に向かっていたのと、直前期の休日は恐らく6~7時間は勉強していた。出勤の日も2時間は勉強時間を確保するように努めた。

そして試験終了まで、仕事以外はほぼ世間と距離を置いていたと言っても過言ではない。会社から一目散に帰宅し、1時間で風呂と夕食を済ませ21時頃には机に向かう。この期間、酒や娯楽は完全に止めた。

 

【総括】

ネット情報で宅建の勉強時間は200時間~300時間、とか書いているのが見受けられる。それは若々しい脳ミソを持つ20代30代のことであり、アタシのような初学者で中年の脳ミソを持つ者は真に受けない方がいい。

中年の脳ミソは、若い頃と違ってどうしても記憶力が劣るし、理解するにも時間がかかる!最初に過去問を見た時、一文読むのに何を問われているのか理解するのに相当な苦労をした。しかし、それがですよ、毎日勉強しているうちに分かるようになれるのですよ。人間年を重ねても時間をかけ継続すれば、衰え始めた脳ミソも活性化されるもんだな~と少し自信が付いた。

 

追記

中古のテキストや問題集は、民法など条文が改正されている箇所があるので要注意だ。自己責任でお願いしたい。(てか真似しない方がいい)

そして巷には、アタシのように成功例を発する人がたくさんいるが、あくまでもその人に合った勉強の方法であり、万人向けではない事を改めて申し上げる。

初学者は、ちゃんとした最新版のテキストと問題集を購入し、または資格の学校に通学するのが早道なのかもしれない。アタシのように自力でテキストを作ったりするなんてアホでしょ?遠回りでしょ?でも結果、アタシにとってはこれが一番の方法だったのだ。

ちょっと昔は、何か調べるのに図書館に行くか本を購入するかしかなかった。その時代を知るアタシは、今はなんて恵まれているのだろうとつくづく思う。専門的なこともYouTubeやサイトで無料でアップしてくれるし(頼んでもいないのに)、クリック一つで25年分の過去問が手に入る。いくらでも誰でも無料で勉強ができる時代だ。ありがた山である。

さて、無事に合格することができた。合格したら不動産会社に転職するという野望があったわけではない。ただ何らかの資格を取って、なんとなく今後の人生に自信を付けたかった。人生100年時代。オンナが独りで生きて行くためには、仕事は絶対必要だという目論見もあったりなんかする。

 

~Fin~

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腹イタ狂騒レポート✏️

それは、明日からお盆休みが始まろうとする金曜日午後3時頃、始まった・・・。

腹イタである。

アタシは、子供の頃からよく下痢をする。便通が良いのはありがたいが、週2・3回はユルユルだ。なのでトイレ掃除は毎回やらねばならんのでメンドクサイ。パーーッと散るため満遍なく汚れるのだ。

いや、そんなことぁどうでもいいのだが、その腹イタの事である。下痢によるいつのもヤツとちょっと毛色が違う痛み方だ。患部は自分から見て左腰骨とヘソを直線で結ぶ真ん中辺り。そこがピンポイントで痛いッ。痛みは時間とともに段々とその範囲が拡がっていく。うんこしても治らない。

明日は土曜日、今日中に病院へ行かねば!早退しよ。

痛みでひん曲がった顔を向け、上役に事情を話すと「何か変な物食べたんじゃ?うんこ出した?」と半笑いしながら早退の許可を出してくれる。今は屈辱より痛みが優先だ。

職場近くの病院へ駆け込もうかと思ったが、まずはかかりつけ医に行くのがセオリーだろう。職場から30分位かかる。電車の中でどんどん痛みが増す。その痛みの範囲も拡がっている。更に吐き気もしてきた。恐らく顔は真っ青だ。席正面の乗客は、アタシを見て目を丸くしている。

アタシ御用達のかかりつけ医は、60才代のおじいちゃんだ。超難関有名国立大出なのに、地元密着の昔ながらの町医者だ。看護師さんも昭和のドラマに出てくる「婦長さん」って感じ。あなたのその温かな手で患部を撫でるだけで病気は治るのでは?と思わせる雰囲気のある方だ。そんなドクター1名、看護師1名という町の小さな内科医院、最新の医療機材なんて無さそう。

さて、問診。 

いつから痛み出した?⇒ 前日も軽く同じような痛みがあったが、うんこしたら治った。今日も出したが治らない。昨日より酷く痛む。

今日はいつから?⇒1時間くらい前から。今、MAX痛い。痛い、痛いっす。

どんな痛み?⇒ピンポイントにズキズキっというか、下痢の時とは違う痛み(語彙力ゼロ)、吐き気もある。

血尿や血便は?⇒ありません。

その他、日ごろの便についてとか朝昼に食べた物とかを聞かれるが、取り立てて悪いものはない。

触診で患部を圧されたが、今アタシが感じている「腹イタ」以外の痛みはない。恐らく盲腸や腸捻転を疑っているようだ。しかし、血圧はいつもより高めだが正常範囲。血液検査でも体内に炎症があるような値は出ていないらしい。でもアタシは脂汗が出るほどの痛みがある。おじいちゃん、首を捻る。

「紹介状を書きましょう。タクシーで救急病院へ行ってください。」「はっ、はひ」

事務員さんから拾ってもらったタクシーが、なんと車体も内装も真っピンク。女性ドライバーも林家パー子並の全身ピンク色。話題性狙いで改造したであろう観光用タクシーに、こんな脂汗かいた腹イタ女を乗せるとはトホホな話だ。

https://frame-illust.com/fi/wp-content/uploads/2019/01/daityou-kenkou.png

さて、救命救急センター的な大病院へピンクのタクシーで到着。子供からは指を指され、大人は二度見している。しかし、アタシにはそんなのに構っていられない。とにかく腹が痛いのだ!

その大病院での担当医は、30歳前後の女医だった。マスクに覆われた顔は乃木坂にいるアイドルのようだ。そこでも同じような問診を受け、またもや血液検査のために血を抜かれる。

更に、学生のような医師に点滴を打たれたが、その注射針を刺す瞬間、「いち、にの、サン!」という、せーの!的な声が聴こえたのは、きっと腹イタによる幻聴だろう。(ちなみに後で点滴の薬名を調べたら生理的食塩水の類いだった)

問診→血液検査→結果判定まで冷房キンキンの待合室で痛みに耐えながら待つ。寒さか又は痛みによるものか知らんが身体が震えてくる。

1時間経過~

アイドル顔の女医から血液検査の結果、異常なし、身体からの炎症は見当たらないと告げられる。何故?こんなに痛いのに。

「CT撮って調べてみますか?」「何でもやってくださひ。」

「順番が来るまでお待ちください。」またまた冷房キンキンの待合室で待機。痛みより寒さの方が勝って来ている。

またまた1時間経過~

「では撮影室に案内します。」 

造影剤の副作用やらの説明を受け、よくテレビで見るドーム型の機材で撮影。腕を万歳する形で撮影するのだが、五十肩が治ってて良かったと余計なことを考える。

「診断結果までしばらくお待ちください。」と、またもやキンキンの待合室で待機。

この待ち時間にふと思った。もし癌を宣告されたらどうしようか?親よりも先に逝ってしまうのか。アタシの葬式に参列してくれる友人はいるのか?数人の顔が浮かんだが、しばらく連絡もしていない。いやそれよりも緊急入院となったら着替えをどうしようか?独り身のアタシには近くに身寄りがいない。さきほど浮かんだ友人達はアテにならない。入院中のアタシを世話してくれる人がいない・・・。あっ、それよりもお金の持ち合わせはあったか?慌てて財布を確認すると、まず現金を入れていない。ちょっとした買い物はICカードで払うのを常としているからだ。クレジットカードも自宅に置いたままだ・・・。CTっていくら掛かるの?そんなこんな考えていると時計は20時を回っていた。実は、この段階で痛みレベルはMAXの100からして20くらいまで下がって来ている。

「帰りたい...。」喉元過ぎれば熱さを忘れる。

またもや1時間経過~

輪切りにされたアタシの身体が映し出される。初めて見るアタシの腹黒さを物語る臓物たち。この中にミスコピーされた細胞の塊があるのか!?

アイドル顔の女医より告げられる。「何も異常は見つかりませんでしたよ。」「へ?」肺から胃、痛みがひどい箇所、子宮、膀胱と医師二人掛かりで診断してもらったようだか、炎症もおデキも何も見当たらず原因が全く分からないという。

女医:「最初に痛み出した時から今はどうですか?」

アタシ:「違和感はありますが、痛みはほぼ無くなりました。スミマセンお騒がせして」と、頭を掻く。「よくあることですよ笑」

そうか、よくあることか。しかし、しかしですよ。腹イタの発生から6時間は経過しているのだよ。鎮痛剤も飲まずに自力で治ったのだよ。検査時間より待ち時間の方が長かったのだよ。しかも待合室が、病的に、べらぼうに、震えるほどに寒かったのだよ。救急ってナニ...?

結局、あの猛烈な痛みはなんだったのか?あの大病院のアタシのカルテには、その診断結果はなんと書かれたのだろうか?「ストレス性のナンチャラ」とか「気のせい」とかだろうか?あれから1週間ほど経つが、あれ以来痛みは出ていない。

真面目な話、今回のことで思ったことがある。独身者は日頃の準備が必要だということ。もしもあのまま緊急入院になったら独りで対応ができない。着替えもお金の引き出しも、色々な手続きも。もちろん、救急だけでなく災害の時も然りだ。

ああ、久しぶりに長文を書くと片腹がイタくなってくる。

~Fin~

 

追記:病院の支払いは次の日に清算に行きました。

 

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【母の日】切腹もんの懺悔

アタシは、半世紀ほど前に誕生した。帝王切開による出産だった。

3つ上の兄も帝王切開で生まれている。出産時の体重が4200gという大きさであった為、身長141センチの小柄な母にとって、その巨大児の出産は経腟分娩では耐えられなかったらしい。その次のアタシも3980g。このアタシも帝王切開で出産する必要があった。腹の皮ふと子宮壁を1度でも切開すると、次の出産で破裂する危険性があるからだ。

なので、母の腹は2回も切開された。  

子供のころ、母と風呂に入りながら、その古傷を人差し指で撫でた。

それはケロイドのような縦1本傷で、その左右にてん・てん・てんと縫合された痕があった。半世紀前の産科医療がどれだけ発達していたのか知らないが、それはまさに手術しました!というような生ナマしさがあった。痛かった?どんだけ痛かった?と何度何度も聞いたが、いつも母は「もう忘れた」と、まともに答えなかった。きっと忘れたではなく、気絶するくらいの痛みだったに違いない。そうやってアタシら兄妹を産んでくれたのだ。

https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/D/Dokujyolife/20250510/20250510225407.png

この連休、帰省した。88歳になった母はヨボヨボだった。

アタシは、帰省するたびに自己嫌悪に襲われる。母が望んでいた結婚もせず、子も産まなかった独り身のアタシ。街で一人気ままに暮らし、母の老いに目を向けず、自分のためだけに過ごす日々。そして帰省すると現実に引き戻される。少し痴呆気味で、飲んでいる薬の袋に書かれていることがすぐに理解できなくなっていた。人の言葉がスッと頭に入って来ず、耳も遠くなり会話をするにも億劫なようだ。少しずつ、少しずつ痴呆が母を蝕む。

あんなに痛い思いをした母は、このバカ娘を産んで幸せと感じてくれていたのだろうか?期待通りに育たなかったこのバカ娘をどう愛そうとしてくれたのだろうか。

母を幸せにできなかったこのバカ娘こそ、切腹もんだ。

 

お母さん、まだ逝かないで。アタシのお母さんでいて。

もう少しだけ、もう少しだけ・・・

 

~Fin~

 

 

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【奇怪】実家の裏側から流れてくるモノ

子供の頃から奇妙な体験をしていたアタシ。

テーブルにあったボールペンが独りでに空中で一回転した、とか。寝ていたら布団の中にファルコンのような白いヘビらしきモノが入って来た、とか。 独身で一人暮らしなのになんだか同居者がいるっぽい、とか。ベッドで寝ていたら飼ってもいないネコがポーンと飛び乗って来た、とか。自分の身体から脱け出て、隣の県にある実家の2階の窓の外に浮かんでいた、とか。イロイロ。

但し、霊をまともに見たとか、そういう身も凍る恐怖体験というわけではない。ちょっとした不思議、という感じ。

正月、実家に帰省した時の話。

アタシは帰省した時は、2階の1室を与えられそこに寝ている。廊下を挟んだ前には甥っ子の部屋がある。その日、甥っ子は初詣に行くので朝方に帰ると言って外出していた。夜、アタシは2階の部屋で動画三昧。そのうち、階段をトントントンと上がってくる音がして、甥の部屋のドアを開け「バタン」と閉まる音がした。おや?早い帰宅やね、と声を掛けようと、アタシは正面の甥っ子の部屋を訪ねた。が、部屋に電気が点いていない。ん?どした?ドアを開けたが、誰もいなかった・・・、という程度の話だが、こういった「???」という、なんか変な体験をする。甥の部屋の中がオドロオドロしいとかそんなものを感じることもない。

ちなみに母も変なモノを見ている。夜に勝手口から外に出た時、火の玉がフワリフワリ、スーーーーっと、裏山に向かって飛んで行ったという。

実家の裏側は、小高い山になっている。5分ほど登るとすぐ頂上になり、すぐ向こう側に下る斜面へと続く。その斜面を下った先には、「炭鉱跡」がある。炭鉱というと有名なのは、石狩・常磐三井三池炭鉱、最近では端島軍艦島)は観光スポットだ。日本には大小数多くの炭鉱があり、現在はほとんどが閉山されている。その「炭鉱」であるが、なかなかの過酷な環境だったらしい。石炭の粉塵で肺の疾患で亡くなる人が多かった。また、落盤事故でたくさんの労働者が亡くなったという。実家の裏の元炭鉱も例外ではなかったようだ。

アタシが子供の頃、父と母が続けて交通事故に遭った。これは何があるのではと思い、霊能者で有名なあるお寺の住職に相談に行ったという。その時に言われたのが、この「炭鉱」から実家の方へよくないモノが流れてきていると言われたそうだ。要するに霊魂の通り道ということだ。

確かにアタシは子供の頃、この裏山の途中までは登って行けるが、ここから先は行ってはいけないような、なんとも言えない気持ちの悪さを感じていたものだ。

 

父と母の交通事故。

アタシと兄との兄妹喧嘩と12年もの確執。

火の玉

アタシの周りに起こる奇妙な出来事。

よくないモノ、それは今も流れて来ているのだろうか。

~Fin~

 

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Once Upon a Time in 田舎~いなかのじけん~

「田舎と都会」のラインは何なのか知らないが、アタシの実家は間違いなく「ド田舎」にあった。子供の頃に住んでいたのは、田舎の象徴、ボットン便所がある家屋だった。家の周辺は雑木林が繁り、謎の鳥が「ギャー、ギャギャッ」と原始時代を思わせるように鳴いていた。

そんな集落では道を歩く人らは知り合いばかりで、知らない人がいると注目の的だ。そういう「ド田舎」の家々は、玄関の鍵を掛けない。ご近所の目が光っており、泥棒はウロチョロしずらい環境だったからだ。

 

さて、アタシが子供の頃、近所に一歳年上のユウコちゃんという子がいた。学校が終わったら、お互いの家でママごとやリカちゃん人形で毎日のように遊んだ。

ユウコちゃんのお父さんは自営業で金持ちだった。家は門構えから次元が違う造りだ。しかし、子供は大人の懐なんて関係ない。一緒に遊べる相手はオトモダチなのだ。

当時、アタシが大事に大事にコレクションしていた物がある。それは、少女漫画「りぼん」の付録だ。可愛い便箋や封筒、小物入れ、人気キャラのシールなど。それらは絶対に使わず、蕎麦ぼうろの缶の箱に収集していた。時々、お宝を取り出しニンマリとするのが楽しみだった。

もちろんユウコちゃんにも見せびらかした。金持ちユウコちゃんにこのチャッチイお宝はどう映ったのだろう。 

そんなある日、いつも通りお宝を拝んでいると、いくつか減っていることに気付いた。あれ?キノコ♡キノコのシールがない!兄に訊いても、そんなもん知るか、と言う。そりゃそうだ。う~ん。

数日後、

睦奥A子のノートがない!田渕由美子のレターセットがない!!

なんか、徐々になくなっていってる...?

 

ある日、学校から帰宅すると、誰もいるはずがない我が家にユウコちゃんが1人でいた。え?なんで??と思いながら戸惑っていると、ユウコちゃんは「お留守番していた」と言いながら、そそくさと帰って行く。それは、ほんの一瞬チッ!という顔でいつものオトモダチね~、の感じではない。アタシも何故だか見てはいけないものを見てしまったと思った。

そして、机の引き出しに仕舞っていたはずの蕎麦ぼうろのお宝箱が、蓋が開いたまま机の上にある。そう、ユウコちゃんがお宝を盗っていたのだ。

 

母に聞いてもお留守番なんて頼んでいないと言う。事情を話すと母が目を細め「あんた、そのこと黙っとき」とポツリ言った。

それからは、ユウコちゃんと遊ばなくなった。子供ゴコロにも気まずさがあったし、ユウコちゃんが習い事を始め忙しくなったのもある。

金持ちの家なのにユウコちゃんの手がお宝に伸びたのは何故か?今でいう「心の病」だったのか。母が「黙っとき」と言った意味がなんとなく理解出来たのは、少し大人になってからだ。

その件以来、アタシの家に「玄関の鍵を掛ける」という新たな習慣が始まった。

~Fin~

 

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【実録】中年からの審美歯科(歯列矯正とセラミック歯でキレイになれるのか)

アタシは「元」歯科衛生士。

当時「あなた職業柄、きっと歯はキレイなのでしょうねぇ」と、何回も言われた。

ンなこたーない。オンギャーと生まれて歯科衛生士になるまでは歯科の知識なんてなかったのだ。

子供の頃、ミルキーを口に入れたままヨダレを垂らして寝ていたし。

なので、現在も臼歯の部分は全部詰め物が入っている。そして片方に八重歯があって上顎の歯列はガッタガタだった。

それにより、添乗員を生業としていた頃、海外では恥ずかしくて思いっきり笑えなかった。外国において歯並びは「その人の育ち」を見られるからだ。なので八重歯や歯列の悪さが超超コンプレックスだった。

という訳で、そのコンプレックスをなくしたろうと、歯列矯正を決心したのは中年になってからだ。


ちょいと専門的な話だが、歯には番号が付いている。前歯の中心から奥歯に向けて1番2番3番...と数える。ちなみに中心から数えて3番目は犬歯、いちばん奥の歯は7番になる。(親知らずは8番)

アタシは2番が通常の歯列より奥(後ろ)に生えており、3番(犬歯)が生えるスペースがなく前の方に突出してしまい八重歯となってしまった。

 

さて、歯科医師と綿密なカウンセリングを行い納得するまで説明を受けた。

アタシは、審美性も求めたので左右3番~3番まで矯正し、セラミックによる被せ物もお願いした。

矯正にかかった期間、約1年ちょい。

ワイヤー矯正治療費用、自費(保険外)10万円!

前歯の被せ物(セラミック)自費(保険外)  1本10万円✕6本!

その他モロモロ、トータル80万円近くかかっている。

※美容歯科ではなく、一般歯科での料金(自費治療につき地域差あり)

タイトルの、中年が「歯列矯正とセラミック歯でキレイになれるのか」だが、

結果を言うと「なれた」。(基本的な美醜は別として) 人前で口を隠すことなく思いっきり笑うことが出来る。コンプレックス解消だ。ついでに、ほうれい線も消えるという副作用もあった。(おそらく、八重歯があった方の顔の筋肉が、歯に引っ掛かってうまく使えていなかったのではないだろうか?知らんけど)

80万円はかかったのだ。元は取った!!(と思いたい)

 

もしこのブログを読んで、自分もやってみようか、と思った方へ申し上げるが、やるには覚悟が必要だ。費用とか時間の問題ではない。

どれだけ事後メンテナンスをしっかりやれるか、という覚悟である。

メンテナンス=口腔内のお手入れのこと。歯磨きは毎食後やっているという方でも、もっと細かいお手入れが必要だ。

昭和の昔、歯磨きは3分はやりましょうと言われていたが、それだけでは全然足りない。

40オーバーの方、えのき茸とかワカメとか歯に挟まりませんか?

それは、中年になったら歯ぐきが瘦せる(退縮する)から。なので挟まった部分から虫歯や歯槽膿漏になってしまう。それに加えて補綴物を被せると、歯垢が溜まりやすくなる。だから通常の歯磨きのみではお手入れ不足になる。

僭越ながら、アタシの歯のお手入れ法をお伝えしよう。

まず「スクラッピング法」という歯磨きの方法で10分は時間をかけて磨く。(※強い力で磨いてはダメ) その後デンタルフロス、歯間ブラシ、更にタフトブラシというミニ歯ブラシでお手入れをしている。就寝前はトータル20分はかかる。

ちなみに朝・昼のお手入れは、夜よりも短め。歯磨きは5分+デンタルフロス+歯間ブラシは必須で、それでもトータル10分は必要。

 

歯列ガッタガタというコンプレックスはなくなった!セラミックも被せて歯が白くなった!人生が豊かになった!満足満足~♪、と浮足立ってはいけない! 

これをどれくらいの期間維持できるか、そしてそれを保つための覚悟があるのか。

やるかやらないかは、あなた次第・・・。 

 

~Fin~

 

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2年ぶり2回目のアレ。【その2】

髪の毛は、1か月に1cm伸びるという。

ジョギングをしているからか、納豆を毎日食べているからか知らんが、どうもアタシの場合は平均より伸びるのが早いようだ。1か月で1.5cm近く伸びているような気がする。(ちなみに爪の伸びも早い)
毛染め(根元染め)をおおよそ1か月半に1度しているが、根元部分を見ると2cmくらいは伸びているのが分かる。だいたい3か月で4cm伸びるとすると、1年で16センチ、2年で32cmという計算か。

そういうわけで、2年と4か月ほど伸ばした結果、35cmの毛束が出来た。なので2年ぶり2回目のヘアドネーションをすることとした。
ヘア+ドネーション(寄附)=髪の毛を寄附する。


癌などの病気や事故で髪の毛を失った子供達に、寄附された髪の毛を材料にして「医療用ウィッグ(かつら)」を作り、無償で提供するというボランティアだ。
この取り組みは、だいぶ世間に知れ渡っているようだし、アタシが住まう県の自治体でも推奨している。

     ↑ ツチノコか?

2年チョイぶりに切った髪の毛を、手に触れマジマジと見てみる。
髪の手入れは、わりとしっかりやったつもりだった。トリートメントは欠かさず、また寝る時も髪に負担がかからないようにもした。
しかし、数年前の髪の毛と比べて、毛にツヤがない。直毛のつもりだったのが、パーマをかけていないのにうねっている。
なんか毛束が全体的にハリがなくションボリした感じ。

これって「老い」、ですか…?

NPO法人に送ってみるが、これがウィッグの材料として使われるかどうかは分からない。(お知らせとか来ない) 医療用ウィッグに使われなくても、見習い美容師の練習用にでもなればそれでヨシとするか。

また数年伸ばして寄附をするかどうかは未定だ。子供達にこんなババアのツヤ・ハリのない毛では気の毒かな~と思ったりもする。

しかし、使用する髪の毛はまだ不足しているという。そして、こちらの自己満足で髪の毛を送ったとて、ウィッグを作製する資金も不足しているそうだ。専門家による手植えでウィッグを作るので手間もお金もかかるのだろう。

 

2年前に贈った髪の毛が、どこかのお子さんの手に渡っているのを期待しつつ、また2度目の髪を贈る。

~Fin~

 

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第2次 フィンガー5ブーム来たる!!

 

 両親が運転し、自宅がある東村山市と都心を往復する日々。

 兄妹はいつも一緒で、バスの中には家族の団欒があった。

これは、1970年代に一世風靡した「フィンガー5」の元メンバーが、解散後に語るインタビュー記事の一部だ。

 

10月上旬、アタシはコロナ感染症に罹患してしまい、世のお決まりで1週間ほど会社を休むことになった。
外に出られないそんな時には、究極の暇つぶしYouTubeのお世話になる。そのおススメでいきなり「フィンガー5」が出て来たのだ。
懐かしさから何曲か聞いていると、ドップリ沼った。昔の歌番組やら、当時のプロモーションやら、検索するとどんどん出て来る。ステイホーム中、コロナウイルスもビックリ、もう夢中で見まくった。

見まくった後に、彼らのその後が気になり始めた。調べてみると、この5人兄妹は解散後、大変な苦労をしていることが分かった。メインボーカルの晃は、19歳で芸能界を引退後、一般社会に出てなかなかの辛い目に遭っている。その妹、妙子は20歳という若さで結婚した。アタシは、このグループの栄枯盛衰の人生込みで、更にマイブームに拍車が掛かったという訳だ。

そうは言うが、アタシはリアルタイムではこの兄妹アイドルグループをよく知らない。
微かな記憶では、アタシより少しお姉さんの女のコ、やたら歌が上手いトンボメガネをかけた男のコがセンターで歌って踊っている。そしてその二人の横で大きいお兄さん達も安定感のあるダンスをしている。アタシは、こましゃくれた歌詞の意味が分からずも曲が大好きだった。フィンガー5が載った何かの雑誌もよく見ていた。
当時、日曜日の昼に「ロッテ歌のアルバム」という玉置 宏の司会で歌番組が放映されており、幼児期の薄い記憶ではフィンガー5もよくこの番組に出演していた(っぽい)。これが第1次マイブームだ。

 

フィンガー5」とはなんぞやについては、検索すると色々出て来るので端折るが、とにかくあの当時は大人気だったのは言うまでもない。
メインボーカル、トンボメガネの晃は布団で寝る時間は3時間ほどのハードスケジュールだったそうだ。食事も食べる暇はなく、食べる気も起らない状況。12~13歳で体重30㎏代、当時の動画を見てもガリガリ。1つ下の妹、妙子よりも瘦せて華奢だ。何度か救急車で運ばれたこともあったそうだ。今なら労基法児童福祉法でややこしい事になる。(法令遵守、なんて言葉は平成にならないと出てこない)

そしてなんと!この人は人気絶頂の頃、東村山市の中学校に普通に通学していたという。「東村山4中の同級生に徹底調査」なんて、その当時の同級生数十人にインタビューをしている記事が出ている。それも個人情報丸出しで。こういうところがTHE昭和だ。当時のこの週刊誌の記事をコピペしたであろう、いちファンのブログで公開されてる。ちなみにファンでなくてもこのブログは読んでみる価値はある。(昭和過ぎて笑う)
この大スター達は、東村山市の自宅から都心へと、両親が運転する車で通勤していたのだ。冒頭に書いたインタビュー記事は、その車内での日常である。


ヒット曲はご存じ「個人授業」「恋のダイヤル6700」「学園天国」

今の若い子の間でも、フィンガー5の名は知らないが、曲は聞いた事があるという人も多いだろう。

今、アタシが熱中しているのは、これら定番の曲ではない。

恋のアメリカン・フットボール」「恋の大予言」「恋の研究」「バンプ天国」「ぼくらのパパは空手の先生」「気になる女の子」「華麗なうわさ」など。

要するに「じゃない方」の曲もすンごくいい!晃の変声期前のハイトーンの歌声と、そして変声期最中の何とも言えない13~14歳のハスキーボイスもよき。

更にダンスパフォーマンスが半世紀前のものとは思えないほど見ごたえがある。一周回って古臭さを感じない。このグループは子供ではあるが間違いなくプロだ!(YouTubeへGO)

これら「じゃない方」の曲も、これまでテレビCMにチョイチョイ起用されていたり、バラエティ番組のBGMにナニゲに使われていたりする。おや?聞いた事ある、と思っていただけるだろう。

歌詞は、あの当時の「死ぬほど好きぃ」とか「会いたいぃ」といった感じでストレートかつ単純な内容のものが多い。(作詞、阿久 悠先生)昭和の歌ってこんな感じだった。最近の歌は、歌詞が斜に構えているような気がしてならない。そして歌い手の言葉がはっきりしないので外国の歌ですか?っていうのが多い。(それはそれで良さはある。知らんけど)

さて人気というのは、オンナの花の盛りと同じく続かないものだ。人気ガタ落ちのキッカケは、絶頂期に渡米したことであろう。渡米の理由は「留学」

でもホンネは、「逃げた。あのまま日本にいたら確実に僕は死んでいたと思う。」と、晃は後日談としてインタビューで述べている。

 

帰国後、いろいろ試行錯誤するも以前のようなヒットに恵まれず、最初の大ヒット曲「個人授業」から5年後となる1978年解散。

後から出て来る彼らのこぼれ話には、芸能界の汚い部分が垣間見える。しかし、あの頃の動画や画像を見ても、そんなことは微塵も見せず眩しいくらいに輝いている。我らに夢を見せてくれている。

アタシは、解散後の彼らの苦労を踏まえ、改めて「フィンガー5」のファンになった。

あの輝きは50年ほど経った今、またアタシを再燃させてくれている。

~Fin~

 

2年ぶり2回目のアレ。

2年ぶり2回目、まるで高校野球の甲子園出場のような表現であるが、いやはや、まさかの2回目のコロナ感染だ。

症状が出始めたのが10月6日昼頃。身体がフワフワするあの感覚、最近の暑さ寒さの繰り返しで風邪だと思った。かかったかな?と思ったらパブロンでしょ、という訳で竹下景子の癒し薬を飲む(古ッ)。そして夜の10時頃、身体の火照りの奥~~に寒気を感じる。竹下景子薬が効かない?慌ててお熱を測る。アタシの家の体温計は、ピピッと鳴るやつではなく昔ながらの水銀入りのやつだ。(ちなみにこの水銀体温計は2021年から製造が終了している。)

5分経過、38度4分。へ?景子さん、なんとかして。その数字を見た途端、気絶するように眠る。

そして深夜、「う、ううぅぅ」という地獄の底から聞こえて来るような声で目が覚めた。自分がうなされている声だ。昭和の漫画に出て来る「う~ん、う~ん」の図と同じアレだ。これはあかんヤツだろと思いつつ、熱を測ってみると水銀が39度6分のラインまで達している。アタシ史上、最高の体温だ。四捨五入したら40度である。写真に残そうかとチラッと考えたが、そんな気力もない。

 

朝一でヘロヘロになりながらも掛かり付けの病院へ行く。検査結果、陽性。病院でもらった薬は、ただの風邪薬だ。もちろん、15000円ほど出せばナンチャラというコロナ感染症の特効薬を買える。しかし、ヘロヘロでもケチった。

症状は3日分もらった風邪薬で落ち着いた。しかし咳がもンのすごく、腹が筋肉痛だ。会社は1週間休んだ。

アタシが住まう県では、10月上旬のコロナ感染は下降していると出ており、流行している状況ではなかった。それまでマスクは付けずに過ごしていたが、手洗いと手指消毒は割と徹底していたつもりだった。そして過去にはワクチンを5回も打ち、1回感染して自然免疫も獲得しているはずなのに、また感染してしまった。

どうやらこのウイルスというヤツは、どこにでも転がっているらしい。こやつは自分自身が繁殖すべく絶好の宿主が見つかれば、すかさず入り込んで来る。

結局、そうさせないためには、アタシ自身の免疫力を高めるしかないようだ。

~Fin~

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【哀悼】Stand by 爺.

とうとう、実家の愛猫「ちー」が逝った。

6月25日朝、2軒隣の徳井さんから「お宅のちーがウチの庭で死んでいる」と電話があったそうだ。

徳井さんの庭はちーのテリトリーで、食後は必ず散歩に行っていた。いつものルーティンの途中で生き絶えたと思われる。

ちーは、死ぬ2週間前くらいから家の中に入らなくなった。隣の空き地の土管の中で、じっとしていたそうだ。エサや水はわざわざ土管まで父が運んでいた。食べる量も日に日に少なくなっていたそうだ。

雨の日には寒かろうと家の中に連れて帰るが、なぜか落ち着かない様子ですぐ外に出ようとしていたという。

そして2~3日姿が見えなくなり、いつの間にか帰って来ている。そんなことが2回ほど続いた。自分の死に場所を探していたのだろうか。

そして、お別れの朝をむかえた。

父は、ちーをモンのすごく可愛いがっていた。我が子のように話し掛け、エサを与え、抜け毛のケアをしてやり、同じ布団に眠った。

母曰く、父は誰にも告げず、ひっそりと近くの裏山にちーを埋葬したとのこと。あの昭和のオレ様男が、たった独りで墓穴を掘り埋葬し、手を合わせる姿が目に浮かぶ。きっと父は、泣いている姿を誰にも見せたくなかったのだろう。

ちーは13年も生きてくれた。ずっと父の「癒し」だった。アタシら子供や孫達と違う愛し方だった。

ちー、ありがとう。

叶うなら、もっと父の傍にいて欲しかった。

Stand by 爺.

 

~Fin~

 

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【クソ親父】一人親方だった父は、家でも独りだった。

昭和9年生まれの父。この夏で90歳になる。

背筋もしゃんとして、マンガに出てくるようなヨボヨボの爺さん、という感じでは全くない。高齢になると食が細くなるというが、そんなことはなく朝からご飯をおかわりする、そんな衰え知らずの父だ。まだまだ長生きしそう。

この父、ちゃっちきの大工だった。今のように建設会社に所属する作業員とは違い、父の時代は棟梁に弟子入りをしてそのまま棟梁の元で働くか、または数年で一人立ちをするかだった。父は後者だ。いわゆる一人親方であった。

昭和30年代~50年代は、建築バブルと言われる時代で父はよく働いていた。盆と正月くらいしか休んでいなかったのを覚えている。

父は、左手人差し指の第一関節より上が無い。電動ノコギリで「たたっ斬った」と言っていた。今のように労災でどうにかしようとか、そんな時代ではない。そして一人親方はそんな保障もない。子供のアタシは、この人差し指を撫でて痛かった?どのくらい痛かった?と何度も聞いた。手が荒れ、パックリ割れた指先や爪の中には松ヤニが入り込み真っ黒だった。この手でアタシは育てられたのだ。たくましく愛しい手だ。

こういう風に書くと、お涙頂戴のようになるが、いやいや全然、全く。

この父、アタシが子供の頃は酒癖が悪く、よく母に手を挙げ足も挙げていた。仕事でもこだわりが強いらしく、気に入らないと現場に行かない。更に飲酒運転で2回交通事故を起こしている。(当時、飲酒運転は一発免許取り消しではなかった)ようするにクソ親父だ。母には色々と苦労をかけていた。当時アタシは、この父があまり好きではなかった。母とはよくケンカをしていたし、兄もそんな父を相手にしていなかった。なので父は家の中でも、一人親方(独り)だった。

 

このアタシ、年齢を重ね経験とわずかな知恵が付き、(やっと)世の中が解り始めたが、この父って実は「スゴクね?」と思い始めた。

この人、自分で理想の家を設計し、働きながら資金を作り、自分でノコギリを使い、金槌で釘を打ち、マイホームを完成させている。夢を手に入れたのだ。

これって、今や死語の「男のロマン」なのではないか?一生の夢をナニゲに叶えているのだ。

今のアタシの歳には、父はすでに夢を叶えていた。それに比べ、今のアタシは何も手に入れていない。「クソ親父」なんてどの口で言うか!

この家の建設中、中学生のアタシは父の仕事ぶりを生まれて始めて見た。ちょうど二階へ上る階段を設置しているところだった。相当の力がいるのだろう。父の汗がタラタラと滴る。その汗がキラっと光った。そのキラっ、が数十年経った今も目に焼き付いている。

あのクソ親父が、自分の生業を見せてくれた。そして父はそれを当たり前とし、今も恩を着せることや自慢することは一切ない。

少し前「親ガチャ」という言葉が流行ったが、流行らせた人はきっと若い人達だろう。

アタシが「クソ親父」と言っていたのと同じように、年齢を重ねた時に親の有難みが解って来るはずだ。

お父さん、クソ親父って言ってゴメンよ。

 

~Fin~

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【その後】兄とケンカ別れしていたが、12年ぶりに和解した話

和解して、あれから1年が経った。

アタシら兄妹のその後を書き綴ろう。

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13年前、兄と大ゲンカをした。

「あんたを刺してアタシも死ぬ」という言葉も出た。

12年も接触を断った理由は何なのか。ここまで書いておきながら理由を避けるわけにはいかないだろう。

兄のギャンブル依存が原因だった。多額の借金を作り、両親に迷惑と心配を掛けていた。それを聞いてからの大ゲンカだった。

正直、この事はいまだに許せないし、一生許さん。

もともと、この兄という人は穏やかで優しい性格だった。こういう人は、いろいろと溜め込みやすいのだろうか、ストレスがギャンブルへ向かったようだ。弱い人だ。現在は、早くも孫が3人もおり、気持ちの行き先が孫達へと向かいギャンブルどころではないようだ。

 

そういう訳で、アタシは兄のいる実家には12年間全く寄り付かなかった。
親戚の葬式だろうが、姪(兄の娘)の結婚式であろうが、参列はするものの、こちらから声を掛けることは一切なかった。(両親と会う時は、アタシの自宅に呼び寄せていた。)

当時、両親は心の底からアタシらを心配していた。
両親からの泣きの説得と、そしていつ逝ってしまうかも分からない高齢の二人を安心させたいという気持ちから、アタシから譲歩した。


氷が溶けたあの日は、去年の5月連休だった。

外出先から帰ってきた兄に対し、アタシは「元気にしとったん?」と顔を引き攣らせながらも声を掛けた。(その時の周囲の張り詰めた空気感と、このセリフを言い終わった後のアタシの虚脱感はお解りいただけるだろうか・・・。)兄はアタシが帰省することを事前に聞いていたようだが、アタシが柔和な態度だったことに驚きを隠せないようだった。「お、おう・・・」と兄。

その日、12年ぶりに家族と食卓を囲んだ。その際、兄は少し酒が入ったのもあり「あの時は自分が悪かった」と、泣いて謝った。
それを聞いてアタシも猛烈に泣きそうになったが、あえて「そうね、分かってたらいいワ」とお茶らけて笑って見せた。

空白の12年が一気に縮まった。

横にいた両親もホッしたことだろう。


12年は長い。産まれたばかりの乳飲み子が中学生になるくらいの時の流れである。

兄はシワが増え、血糖値が高いだの尿酸値がどうのと、たっぷり蓄えた脂肪を撫でながら言う。アタシ自身も変わらないつもりでいたのに、当たり前だが確実に年を取った。相手を見て自分もそうなのだと感じる。

そして両親も然り。

 

それから、秋には母が圧迫骨折で入院。そして認知症の症状も出始めている。兄とは両親の事で話し合う機会が多くなった。

アタシは、これまでの時間を取り戻すかのように出来る限り実家へ帰省し、兄と両親との時間を作るようにしている。家族が揃って一緒に食事をする機会は、あと何回残されているのだろうか。

両親が逝った後、あれをすれば良かった、こうしてあげたかった、と後悔する時がきっと来るだろう。その中に、2人しかいない兄妹が縁を切っているという、こんな親不孝な後悔があるだろうか。

1年前に兄と和解(仲直り)して良かったとつくづく思う。

これからの残された毎日が、家族との思い出に変わるのだ。

 

~Fin~

 

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【母の日 2024】いつまでもオンナ 女 おんな

87歳の母。

少し前までは141cm、56kgだった。

片手に菓子パンを持ちつつ、痩せたい痩せたいと言っていたのを思い出す。

それがここ2年ほど、帯状疱疹・圧迫骨折により体重が10kgほど落ちて瘦せた。

食欲もあまりなかったらしい。

この体重から一気に瘦せると顔が萎んでしまう。すなわちシワが増えるのだ。

そんな落ち込んだ母を見て、父は「昔やっていた顔のマッサージをしろ」と、まるで美容部員のようなことを言ったらしい。

母は、オトコである父にそんな事を言われたもんだから、早速、お高いんでしょ?と言いたくなるような化粧品を買い、ここ数か月ほどマッサージにいそしんでいたらしい。

すると、あ~ら不思議。以前より顔にツヤが出てきたのだ。87歳にしては血色もいい。

「赤いバラのブーケ(父の日・母の日)」の写真

 

母は半年前からデイケア(リハビリ)に週2回通っている。行く時には、きちんと化粧をし服装も気を使い、鼻歌交じりでお迎えのバスに乗って行くそうだ。

高齢の母にとって、このような外出は非日常である。デイケアに行けば同世代の「女子」がいておしゃべりに花を咲かせている。

肌ツヤがいいのは、家からおしゃれをして外出をすることが要因で、それこそ生活に「ハリ」が出たのではないか。

アタシ思うに、

年齢を重ねても「女はオンナ」だ。89歳の父のちょっとしたひと言でキレイになれる「オンナ」なのだ。

鏡台に向かい口紅を塗る母は、子供の頃に見た母と少しも変わらない。

そんな「オンナ」である母が愛おしい。

 

~Fin~

 

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【閑話】ネコとおじいさん

「ネコとおじいさん」

以前このタイトルで、ホームレスのおじいさんとおじいさんを慕う白いネコの話を書いた。

 コレ ↓↓

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今回は、実家のネコ「ちー」と今年90歳になるアタシの父との話だ。

 

実家の「ちー」4回目登場!

 

ちーが危ない。もう13年生きているので身体が弱っている。

3月下旬、ちーが脳梗塞を発症した。数か月前からよく後ろ足で耳を掻いていたので、ノミダニの仕業と思っていた。動物病院の診察によると、そうではなく中耳炎を患っていたらしい。さらに奥の脳まで侵されてしまったらしく、そのことにより血管が詰まったということだ。

ちーは、人間の脳梗塞と同様に半身不随になり片足に力が入らない。なのでトイレに行かせるときは、父が抱き上げて連れていっている。

...と、いま普通にこれを書いているが、アタシにとっては父親が1匹のネコに対して、そんな優しさがあったのかと驚いている。

父は昭和の初期に生まれた。男ばかり4人兄弟の三男坊だ。なので甘えん坊の「オレ様」で育った人だ。世は男社会、また男尊女卑が甚だしい土地柄もあり、ようするに「自分が1番」の男だった。

そのこともあり、アタシが記憶する父はネコに対する愛情は全くなかったと言っていい。「汚い」「家を荒らす」「腐れ猫!」「捨ててこい!」こんな言葉を発しながら、ネコを足で蹴ったりする男だった。

 

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実家は、昔から常にネコが住んでいた。ネコと御縁があるとしか思えない。ノラが勝手に住み着いたり、人からもらったりしていた。

ちーは、保健所のネコの捕獲からギリギリに逃れたネコだった。すでに捕獲用の檻に入った状態で「ちょっと待ったーーっ!」と、それを見ていた従姉が救い出したのだ。「この猫、なんか光るものがあった。」とタレントのスカウトマンが言うようなセリフを吐いたのを思い出す。しかも贔屓目かもしれないが周りが引くほど賢かった。

過去のブログ↓↓

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そして可愛いらしさに家族全員メロメロだった。特に父はホントよく可愛がっている。

孫達が手を離れた寂しさもあり、代わりにちーを可愛がっているのかも知れない。

そしてちーも、可愛がってくれる人は誰なのか畜生ながらに解っている。

 

ちーは、父の寝床まで片足が不自由ながらも、いつもの時間に寝に来るそうだ。ただの習慣なのか、または安心して眠れる場所が父の懐なのか。

 

「ネコとおじいさん」

動物学的にも結びつかなそうな「種」の二人だが、ふんわりと平和な二人だ。

暖かな日の縁側に注ぐお日様のような雰囲気...

先のブログに書いた、ホームレスのおじいさんと白ネコのそれと同じだ。

13歳の老ネコ、そして90歳になる父。

いつまでもこの日だまりの中で過ごす日々が続いてほしい。

 

~Fin~

 

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【酒豪】たびたび酒に失敗したが、稀に成功した話

 

年齢を重ねるごとに、体力も内臓の状態も段々と老いていくのが分かる。ちょっとハードな事をすると寝ても疲れが取れないし、体力を付けようと質の良い肉なんぞ食べたら下痢する。

20歳代なんて無敵だった。

仕事終わりに飲みに行き、徹夜で遊んでそのまま出勤しても全然シンドくなかった。

二日酔いしても昼頃には回復して、普通にランチにガッついていた、あの頃...。

 

アタシはお酒が強い。と、言ってもオンナの肝臓の割に、である。オンナの肝臓のアルコール処理力は、オトコのそれと比べ落ちる。

だから調子に乗ると痛い目にあうのだ。

若い頃は調子に乗っていた。ビールは水だった。飲めばミルク飲み人形の如く、即シッコでジャー。アルコール分解も早かった。

さすがに日本酒を1升空けた時は、カトちゃんの酔っぱらいコントのように千鳥足になる。そして、朝には布団の上がゲ■まみれの時もあった。

それでもは二日酔いはしなかった。今のアタシなら天に召されるはずだ。

 

あれは、アタシが花の盛り24~25歳くらいの出来事。

ある有名な飲み屋街にオンナの友人と出掛けた。そこはナンパ通りでも有名だ。

その友人もアタシと同じ、いやそれ以上に「飲み助」だった。

その通りをそぞろ歩いていると、「お姉さん、すいませぇん」と若いオトコから声を掛けられた。ナンパか?と思いきや飲み屋のキャッチだった。

それもホストクラブだと言う。「2000円で飲み放題、無制限だけど来ない?」とチャラチャラと誘う。

田舎モンのアタシは、危険信号が点滅する。

しかし飲み助の友人は「無制限の飲み放題?行く!」と即答した。

この友人はアホだけど賢かった。「一筆書け」と証拠を残させた。そうは言うても、オンナ二人だ。そんなに飲めまいと踏んだのだろう。そのキャッチ野郎はチャラチャラと書いた。

 

ホストクラブ、と言っても着いてみれば、今話題になっているアレのような雰囲気ではない。現在で言うなら「ガールズバー」のオトコ版だった。

カウンター越しにホストがいて、酒を飲みつつ会話をするといったスタイル。なので、余計な会話はいらんアタシらにとっては絶好の酒飲み場だった。

まずはビールで乾杯。若い五臓六腑に沁み渡る。当時は、発泡酒第三のビールなんてなかった時代なのでモノホンのビールだ。『美味しいラガーが飲みたいです』のキョンキョンのCMが懐かしい。

2杯目も何か知らんけど祝杯。あっさり3杯目も続く。ここらでアタシらは気付く。グラスがオシャレな小ぶりサイズなのでチビチビ飲んでてキリがない。

あのう、ジョッキに入れて貰えます?

軽く嫌な顔をされる。

さあ、器が変わった、飲み直しだ!

飲めや飲めや、やんや やんや!

ちょっとほろ酔いになると、お店側は「別料金だけどシャンパンでもいっとく?」なんて営業を仕掛けてくる。「んーん、いかなーい。おかわり~♪」とビールをたて続けに飲む飲む飲む。ビールに飽きてくると、あの頃の定番、コークハイと続く。アタシにとって、このコークハイという飲み物は、それこそ箸休め的な感覚の酒だ。永遠に飲んでいられる。薄めに出されると「濃い目で」とすかさず申し出る。飲み助の友人も、チューハイやら、カクテルやらピッチが速い。

アタシら二人は、周りが引いている雰囲気をツマミに、飲む飲む飲む。

アタシは、店側が酒屋に追加の仕入れをしていたのを垣間見た。

しかしながら無制限とはいいつつ朝までとはいかない。お会計2000円をきっちり支払い、きちんと終電に乗って帰った。約4時間、飲んだ飲んだ。

 

さて、なぜ2000円で飲み放題なのか訊ねた。ホストらは客を入店させるノルマが迫っており、2000円の餌で釣っていたのだという。釣られたアタシら二人は、洒落たカクテルの1~2杯で顔が赤くなるようなタイプに見えたのだろう。

無事にホストらのノルマは達成した。そしてアタシらも十分に酒を堪能した。ホストもアタシらも万々歳だ。みんな幸せだ!

 

一番のとばっちりは、あの日赤字だったであろうあのホストクラブだ。

 

酒は百薬の長と言う。

でも、ほどほどに。

 

~Fin~

 

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