つぶやきよりチョイ長め

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【東日本大震災】3月11日のアタシ

転職回数が多いアタシ。

アタシは、ある東北の県庁出先機関で嘱託職員として採用された。

「出先」なので東北県外での採用だ。

それは2011年1月、あの震災が来る2ヵ月前だった。

業務内容は、その東北県の観光誘致、特産物の販路拡大、情報の発信が主だった。

前職で観光に携わっており、東北にも何度も訪ねた事があったので採用されたのだろう。

 

あの日は突然だった。

第一報は、NHKの速報だ。

テレビの上部に「速報かなり大きな揺れ」との文字が映し出された。正直、いつものことだろうと高を括っていた。

時間が経つに連れて、尋常ではない状況が伝えられる。

県職員は、現地県庁へ状況確認の連絡を入れている。が、固定電話、携帯電話、メールの送受信、一切繋がらず。

そんな中、アタシらはただ呆然と緊迫したテレビ中継を見ているだけだ。

津波が人を襲う。

家を飲み込む。

寒さと暗闇が身体と心を切り刻む。

自然の驚異をテレビで見ているだけで、遠くにいるアタシらは何も出来ない。なす術もない。

 

そんな中、離れていても当事者であるこの県の出先機関にマスコミがやって来る。

と言っても、現場の状況が分からないのに、当時の所長は「心配です」くらいしかコメントしようがない。

当日のNHKのカメラには、事務所内で心配そうにテレビ速報を見つめるアタシの後頭部が映っていた。

ここにはアンテナショップがあり、東北から物産の販売に業者さん達が来ていた。

家族が心配で心配で、半泣きだ。

直ぐに帰省しようにも、公共交通機関は途中で途切れている。

そこで知り合いから車を借り、高速道路と日本海側の国道を使い(東京周辺もマヒ状態)、不眠不休で運転し翌日の昼過ぎにはなんとかたどり着けたとのこと。家は半壊、でも家族は無事だった。

 

ある業者さんは、自宅工場を失くした。

でも生きているだけで何とかなるんだという、この方の言葉に説得力と悲しさがあった。

 

アタシは、なす術もなく業務終了時間となり、後ろ髪を引かれながらも帰宅。県職員らは来るはずもない現地からの連絡を待ち、一晩事務所で過ごしたようだ。

アタシは、その日は眠れなかった。テレビを見ても人ごととは思えない。もしかしたら、この仕事に就いていなければ、この大惨事について少し鈍感だったかもしれない。

 

その日以降、お役に立ちたいというボランティア経験者、なんだかの宗教、寄付の問い合わせ等様々な対応をした。

直ぐボランティアに行く!と、いきごんで来た人に、自衛隊もまだ現地に踏み入れていないので暫し待ってくれ、と宥める。

現地は寒いだろうから、と古着を山ほど持参する人もいた。(まだ送る手段もないのに)

気持ちも分かるし有難いが、現時点では何も出来ない。

そう言えば、近くに事務所を構える某衆議院議員SNSで寄付を募ったが、その事務所の前には衣類や雑貨が山ほど積んであり、秘書らしき人が茫然としていたのを垣間見たが、どうやって送ったのだろうか(その費用はどうなった?)。

 

あの日の出来事は、13年経った今でも鮮明に記憶している。

 

生涯、この日を忘れない。  

合掌