父は、昭和初期に生まれた。
なので先の戦争のあの時代を、オボロゲながら覚えている年齢だ。
大空襲の後に、地元の駅にたくさんの重傷者や遺体が運ばれて来たという話を、父から聞いたことがある。
また地域柄もあるが、この年代の男たちは男尊女卑の考えが当たり前だった。
オンナ達もそれを受け容れ、男を立てるよう躾けられる。
アタシもそんな両親に、そのように育てられた。
例えば、洗濯物を干す時、干し竿の上部に男の物干す。オンナの物は下の方に干す。
そして、それを仕舞うタンスも順番が決まっていた。もちろん上段が男。
お風呂に入る順番も男どもが先。オンナのケツの後に入るか~ってやつ。
夕食に煮魚が出たら、お頭は父に、尻尾の方は母・子供が食べる。
そういう「THE昭和」な家庭だった。
父は母とケンカしては、母を足で蹴っていた。
更に何か気に入らないと星 一徹の如く、食事が乗っているテーブルをひっくり返した。(世に言う、ちゃぶ台返しだ)
令和の世の中では信じられないかもしれないが、これって普通だった(はずだ)。
父は、昔気質の職人であった。
現在のように会社に雇われるというよりも、自分で手に職を付けるのが当たり前の時代だったようだ。
サラリーマンではないので、日給だった。
会社員より貰うお金は多かったが、今でいう保障は全くなかった。(いわゆる一人親方)
また、仕事を休むという感覚がなかった。休むのは盆と正月くらいだ。
なので、父が学校の行事に参加していた記憶がない。
そして父には「おこずかい」なんてものはなかった。
父が仕事に出かける時、タバコ(チェリー)代の200円だけを母の財布から「もらうぞ」と声を掛け、チャリンとポッケに入れ、アルマイトの弁当箱とタイガー魔法瓶の水筒を持ち出勤していたのを思い出す。
そして毎晩、日本酒コップ1杯を楽しみに帰宅する、そんな父親だった。
そんな父は、来月89歳を迎える。
今はひ孫が3人いる。
もう、ちゃぶ台返しをするヤンチャさはない。
むしろ好々爺になった。
たいぶ前、アタシが帰省した時、父が孫(兄の子)をオンブして、散歩に行くというのでアタシもついて行った。
散歩の途中、一人での生活はちゃんとやれているのか?
仕事はどうだ?
結婚はしないのか?
お母さんがいつもお前のことを心配している、と自分で思っていることをあえて母に置き換えて訊いた。
そのうち甥がぐずり始めたので、あやしながら父は、「あーあ、これがお前の子どもなら、1日中でも背負って歩いても苦にならんのになぁ」とポツリと言った。
アタシは泣きそうになった。
アタシは、結婚をしなかった事に対して全く後悔はないが、両親にアタシが産んだ子を見せてあげられなかったことが、唯一悔いが残る。
あの昭和のオレ様男がポツリと言ったこの言葉は、一生忘れることはない。
~Fin~