つぶやきよりチョイ長め

⭐経験談がメインです🌼

【添乗】1997年 在日朝鮮人団体ツアーin韓国

この日出ずる国に外国人観光客がワンサカやって来ている。

Nipponの文化に触れてみたい、和食を食べたい、made in Japanのアレを買いたい、と言って頂いている外国人の皆様、日本国小市民代表として御礼申し上げます。どんどんお金を落として日本経済を回してチョーダイ!

そういう観光客を目を細めて見ていると、添乗員を生業としていた時のことを思い出す。

1997年、韓国への添乗だ。

それは、某県の在日朝鮮人で形成された「同包」の団体だった。人数は妻同伴の合計40名。

なので、パスポートは日本国のものではない。

そして出入国カードには「president」と記入すべく会社経営者の集まり、いわゆる日本で成功した方達だ。

    

ツアーは韓国3日間。

旅行会社も添乗員も、このような一個団体のツアーは、募集型のツアーよりも3倍は気を使う。

初日、国際線ターミナルで航空券を渡す際に名前を読み上げるのだが、朝鮮名って英語で書かれると読みづらいし、舌を噛みそうだ。

出入国カードの記入について全員を前に説明をするのだが、戸惑ったのが、同行の奥様方は日本語は流暢に話せるが、漢字の読み書きが出来ない方がいたということ。

戦中戦後のあの当時の日本では、在日朝鮮人の方にとって学校で勉強をする事は二の次で、生きて行くだけで精一杯だったのだろう。

1997年の韓国は、仁川国際空港はまだ開港しておらず「金浦国際空港」へ到着。その空港は、当時の大阪伊丹空港に似た感じで、規模もそのくらいの大きさだったように記憶する。到着ロビーで日本語ペラッペラの現地ガイド(女性)と合流。

 

当時の韓国(ソウル)の街は、近代的で日本にもよくある「都市」の風景だ。ちょっと車を走らせると田舎の風景になる。こういうところはあまり日本と変わらない。それに顔や体系も日本人とあまり違いがないため、本当にここは外国か?と思わせる。ただ、街の看板や標識がハングルばかりであること、そして車が右左反対走行であること、こういうので異国にいるんだなぁと感じる。

ソウルの中心地に入れば渋滞がすんごいし、みんな車の運転が荒いのでいつ事故を起こすかハラハラもんだった。

 

さて、このツアーは「統一展望台から祖国を偲ぶ」というのがメインだった。

日本と北朝鮮は、国交がないため日本からは簡単には行けない。なので韓国側から祖国を偲ぶ。

戦後、色々な事情があり、日本で生活することを選んだ在日朝鮮人御一行は、故郷が目の前にあるのにここから眺めるだけだ。泣いている方もいる。

御存じの通り、朝鮮両国は未だに休戦中だ。同じ民族なのに。日本でいえば、名古屋あたりを国境として、東と西とで戦争をするようなもんだ。

当時の統一展望台には、露天のお土産店があり、ゴザを敷いて手作り人形や、絵葉書、キーホルダーのような土産を並べ、地元の婆ちゃん達が売っていた。

アタシは、現地ガイドに通訳してもらい、おチャらけて婆ちゃん達を笑わせた。「こんなに気軽に話した日本人は初めてだ。」と婆ちゃんが言っているとガイドが笑う。開かれた令和とは違い、当時は日本人観光客も今ほど多くはなく、ましてや露店のお婆ちゃん達に話しかける日本人は少なかったのだろう。

      

次の観光は、歴史史料館だ。具体的にどこの史料館かは記憶がないが、朝鮮半島における歴史的な史料を展示している史料館だ。ここでは、現地ガイドが説明をする。

・・・んで、ここでひと悶着あった。

歴史的な史料を展示している⇒ 韓国人ガイドが韓国寄りな説明をする

北朝鮮出身者がどう思うか・・・想像してほしい。御一行は、史料の説明に一つ一つ反論する。現地ガイドは涙目だ。アタシも間に入りたいが、朝鮮語が全く分からない。

改めて申し上げるが、参加者は日本で成功した社長さん達だ。苦労をして会社を築き成功した人達だ。物申し方が凄まじい。

その御一行のオーガナイザーと相談し、途中でその史料館を出ることとなった。そもそもどうして行程にこの史料館を入れたのか!(旅行会社の担当者を恨む)

ホテルへ向かうバス車内でも喧々囂々の騒ぎであった。その現地ガイドもなかなかの強気な女性だったため収まらない。間に立つ添乗員(アタシ)も頼りないこと(トホホ)

帰国後、旅行会社の担当に報告(苦情)を申し出たのは言うまでもない。

当時、アタシもまだ若く、そして知識が不足していたのもあり、日本、韓国、北朝鮮の複雑な関係を理解しないまま添乗していたが、この年齢になってあの添乗の難しさを感じ入ることができる。

ツアーの参加者は、良い人がほどんどだった。奥様方も豪快で優しい(けど気が強い 笑)。今思い出してみれば、みんな凛とした人が多かったな。

あの当時、殆どの方は60歳代だったが今もお元気だろうか。

 

~ Fin ~