つぶやきよりチョイ長め

⭐経験談がメインです🌼

【閑話】ネコとおじいさん

「ネコとおじいさん」

以前このタイトルで、ホームレスのおじいさんとおじいさんを慕う白いネコの話を書いた。

 コレ ↓↓

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今回は、実家のネコ「ちー」と今年90歳になるアタシの父との話だ。

 

実家の「ちー」4回目登場!

 

ちーが危ない。もう13年生きているので身体が弱っている。

3月下旬、ちーが脳梗塞を発症した。数か月前からよく後ろ足で耳を掻いていたので、ノミダニの仕業と思っていた。動物病院の診察によると、そうではなく中耳炎を患っていたらしい。さらに奥の脳まで侵されてしまったらしく、そのことにより血管が詰まったということだ。

ちーは、人間の脳梗塞と同様に半身不随になり片足に力が入らない。なのでトイレに行かせるときは、父が抱き上げて連れていっている。

...と、いま普通にこれを書いているが、アタシにとっては父親が1匹のネコに対して、そんな優しさがあったのかと驚いている。

父は昭和の初期に生まれた。男ばかり4人兄弟の三男坊だ。なので甘えん坊の「オレ様」で育った人だ。世は男社会、また男尊女卑が甚だしい土地柄もあり、ようするに「自分が1番」の男だった。

そのこともあり、アタシが記憶する父はネコに対する愛情は全くなかったと言っていい。「汚い」「家を荒らす」「腐れ猫!」「捨ててこい!」こんな言葉を発しながら、ネコを足で蹴ったりする男だった。

 

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実家は、昔から常にネコが住んでいた。ネコと御縁があるとしか思えない。ノラが勝手に住み着いたり、人からもらったりしていた。

ちーは、保健所のネコの捕獲からギリギリに逃れたネコだった。すでに捕獲用の檻に入った状態で「ちょっと待ったーーっ!」と、それを見ていた従姉が救い出したのだ。「この猫、なんか光るものがあった。」とタレントのスカウトマンが言うようなセリフを吐いたのを思い出す。しかも贔屓目かもしれないが周りが引くほど賢かった。

過去のブログ↓↓

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そして可愛いらしさに家族全員メロメロだった。特に父はホントよく可愛がっている。

孫達が手を離れた寂しさもあり、代わりにちーを可愛がっているのかも知れない。

そしてちーも、可愛がってくれる人は誰なのか畜生ながらに解っている。

 

ちーは、2階の父の寝床まで片足が不自由ながらも、いつもの時間に寝に来るそうだ。ただの習慣なのか、または安心して眠れる場所が父の懐なのか...。

 

「ネコとおじいさん」

動物学的にも結びつかなそうな「種」の二人だが、ふんわりと平和な二人だ。

暖かな日の縁側に注ぐお日様のような雰囲気...

先のブログに書いた、ホームレスのおじいさんと白ネコのそれと同じだ。

13歳の老ネコ、そして90歳になる父。

いつまでもこの日だまりの中で過ごす日々が続いてほしい。

 

~Fin~

 

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【酒豪】たびたび酒に失敗したが、稀に成功した話

 

年齢を重ねるごとに、体力も内臓の状態も段々と老いていくのが分かる。ちょっとハードな事をすると寝ても疲れが取れないし、また体力を付けようと質の良い肉なんぞ食べたら下痢する。

20歳代なんて無敵だった。

仕事終わりに飲みに行き、徹夜で遊んでそのまま出勤しても全然シンドくなかった。

二日酔いしても昼頃には回復して、普通にランチにガッついていた、あの頃...。

 

アタシはお酒が強い。と、言ってもオンナの肝臓の割に、である。オンナの肝臓のアルコール処理力は、オトコのそれと比べ落ちる。

だから調子に乗ると痛い目にあうのだ。

若い頃は調子に乗っていた。ビールは水だった。飲めばミルク飲み人形の如く、即シッコでジャー。アルコール分解も早かった。

さすがに日本酒を1升空けた時は、カトちゃんの酔っぱらいコントのように千鳥足になる。そして、朝には布団の上がゲ■まみれの時もあった。

それでもは二日酔いはしなかった。今のアタシなら天に召されるはずだ。

 

あれは、アタシが花の盛り24~25歳くらいの出来事。

ある有名な飲み屋街にオンナの友人と出掛けた。そこはナンパ通りでも有名だ。

その友人もアタシと同じ、いやそれ以上に「飲み助」だった。

その通りをそぞろ歩いていると、「お姉さん、すいませぇん」と若いオトコから声を掛けられた。ナンパか?と思いきや飲み屋のキャッチだった。

それもホストクラブだと言う。「2000円で飲み放題、無制限だけど来ない?」とチャラチャラと誘う。

田舎モンのアタシは、危険信号が点滅する。

しかし飲み助の友人は「無制限の飲み放題?行く!」と即答した。

この友人はアホだけど賢かった。「一筆書け」と証拠を残させた。そうは言うても、オンナ二人だ。そんなに飲めまいと踏んだのだろう。そのキャッチ野郎はチャラチャラと書いた。

 

ホストクラブ、と言っても着いてみれば、今話題になっているアレのような雰囲気ではない。現在で言うなら「ガールズバー」のオトコ版だった。

カウンター越しにホストがいて、酒を飲みつつ会話をするといったスタイル。なので、余計な会話はいらんアタシらにとっては絶好の酒飲み場だった。

まずはビールで乾杯。若い五臓六腑に沁み渡る。当時は、発泡酒第三のビールなんてなかった時代なのでモノホンのビールだ。『美味しいラガーが飲みたいです』のキョンキョンのCMが懐かしい。

2杯目も何か知らんけど祝杯。あっさり3杯目も続く。ここらでアタシらは気付く。グラスがオシャレな小ぶりサイズなのでチビチビ飲んでてキリがない。

あのう、ジョッキに入れて貰えます?

軽く嫌な顔をされる。

さあ、器が変わった、飲み直しだ!

飲めや飲めや、やんや やんや!

ちょっとほろ酔いになると、お店側は「別料金だけどシャンパンでもいっとく?」なんて営業を仕掛けてくる。「んーん、いかなーい。おかわり~♪」とビールをたて続けに飲む飲む飲む。ビールに飽きてくると、あの頃の定番、コークハイと続く。アタシにとって、このコークハイという飲み物は、それこそ箸休め的な感覚の酒だ。永遠に飲んでいられる。薄めに出されると「濃い目で」とすかさず申し出る。飲み助の友人も、チューハイやら、カクテルやらピッチが速い。

アタシら二人は、周りが引いている雰囲気をツマミに、飲む飲む飲む。

アタシは、店側が酒屋に追加の仕入れをしていたのを垣間見た。

しかしながら無制限とはいいつつ朝までとはいかない。お会計2000円をきっちり支払い、きちんと終電に乗って帰った。約4時間、飲んだ飲んだ。

 

さて、なぜ2000円で飲み放題なのか訊ねた。ホストらは客を入店させるノルマが迫っており、2000円の餌で釣っていたのだという。釣られたアタシら二人は、洒落たカクテルの1~2杯で顔が赤くなるようなタイプに見えたのだろう。

無事にホストらのノルマは達成した。そしてアタシらも十分に酒を堪能した。ホストもアタシらも万々歳だ。みんな幸せだ!

 

一番のとばっちりは、あの日赤字だったであろうあのホストクラブだ。

 

酒は百薬の長と言う。

でも、ほどほどに。

 

・・・・・・・・・

さて余談だが、本日は4月1日。アタシのブログ開設1周年だ。最初の頃の勢いはなくなったが、地味に続いている。更新が少ないのに日々アクセスして頂いている皆様。しょーもないブログなのに本当に感謝感謝!!

 

 

【東日本大震災】3月11日のアタシ

転職回数が多いアタシ。

アタシは、ある東北の県庁出先機関で嘱託職員として採用された。

「出先」なので東北県外での採用だ。

それは2011年1月、あの震災が来る2ヵ月前だった。

業務内容は、その東北県の観光誘致、特産物の販路拡大、情報の発信が主だった。

前職で観光に携わっており、東北にも何度も訪ねた事があったので採用されたのだろう。

 

あの日は突然だった。

第一報は、NHKの速報だ。

テレビの上部に「速報かなり大きな揺れ」との文字が映し出された。正直、いつものことだろうと高を括っていた。

時間が経つに連れて、尋常ではない状況が伝えられる。

県職員は、現地県庁へ状況確認の連絡を入れている。が、固定電話、携帯電話、メールの送受信、一切繋がらず。

そんな中、アタシらはただ呆然と緊迫したテレビ中継を見ているだけだ。

津波が人を襲う。

家を飲み込む。

寒さと暗闇が身体と心を切り刻む。

自然の驚異をテレビで見ているだけで、遠くにいるアタシらは何も出来ない。なす術もない。

 

そんな中、離れていても当事者であるこの県の出先機関にマスコミがやって来る。

と言っても、現場の状況が分からないのに、当時の所長は「心配です」くらいしかコメントしようがない。

当日のNHKのカメラには、事務所内で心配そうにテレビ速報を見つめるアタシの後頭部が映っていた。

ここにはアンテナショップがあり、東北から物産の販売に業者さん達が来ていた。

家族が心配で心配で、半泣きだ。

直ぐに帰省しようにも、公共交通機関は途中で途切れている。

そこで知り合いから車を借り、高速道路と日本海側の国道を使い(東京周辺もマヒ状態)、不眠不休で運転し翌日の昼過ぎにはなんとかたどり着けたとのこと。家は半壊、でも家族は無事だった。

 

ある業者さんは、自宅工場を失くした。

でも生きているだけで何とかなるんだという、この方の言葉に説得力と悲しさがあった。

 

アタシは、なす術もなく業務終了時間となり、後ろ髪を引かれながらも帰宅。県職員らは来るはずもない現地からの連絡を待ち、一晩事務所で過ごしたようだ。

アタシは、その日は眠れなかった。テレビを見ても人ごととは思えない。もしかしたら、この仕事に就いていなければ、この大惨事について少し鈍感だったかもしれない。

 

その日以降、お役に立ちたいというボランティア経験者、なんだかの宗教、寄付の問い合わせ等様々な対応をした。

直ぐボランティアに行く!と、いきごんで来た人に、自衛隊もまだ現地に踏み入れていないので暫し待ってくれ、と宥める。

現地は寒いだろうから、と古着を山ほど持参する人もいた。(まだ送る手段もないのに)

気持ちも分かるし有難いが、現時点では何も出来ない。

そう言えば、近くに事務所を構える某衆議院議員SNSで寄付を募ったが、その事務所の前には衣類や雑貨が山ほど積んであり、秘書らしき人が茫然としていたのを垣間見たが、どうやって送ったのだろうか(その費用はどうなった?)。

 

あの日の出来事は、13年経った今でも鮮明に記憶している。

 

生涯、この日を忘れない。  

合掌

 

【自白】風呂でオシッコをしてしまう癖を止められない話

タイトルの件、もうね、パブロフの犬状態ですわ。

 

レベル50代にして、まだこれが抜けない。

アタシが住んでいるマンションは、お風呂とトイレは繋がっており、トイレを済ませて3歩で浴室に行ける構造だ。

なのに、シャワーを浴び始めるとなんだかムズムズしてくるのである。さっきしたばっかりなのに、数滴出ちゃう。

身体や髪を洗う間も、ムズムズするので出しちゃう。

一応申し上げるが「頻尿」や「多尿症」ではない。

 

アタシがまだ御幼少の頃、母から「アンタ、いまオシッコしたね?!」と叱られた...(遠い目)

バレると叱られると思うと、ますます我慢できなくなる。

 

  



 

修学旅行の時は入るギリギリにトイレに行き、耐えに耐え2~3滴に押さえた。

添乗員時代、宿泊地が温泉だったときは夜中に大浴場へ行き、周りに誰もいないのを良いことに、、、いたしました。(お縄を頂戴します)

 

この国は神の国と言われている。
八百万の神々がいる国だ。
太陽も山も水も岩も木も空も、流行歌にある「トイレの神様」も色々な神様が守ってくださっている。
と、いうことは「風呂の神様」も然りだ。


なので、そのお風呂の神様に粗相がないように、何気なく鼻歌でも歌いシャワーを全開に流しながら「やってません」顔で、、、やる。

 

ここ10年以上は、他人と風呂に入ることがなく過ごして来た。

というか、この癖が治らない限り他人と風呂に入れないのだ。

 

原因は何なのか?

ただの幼児性か?

パブロフの犬のように畜生に成り下がっているのか?

 

 

・・・ヒンシュク、上等

 

 

【番外編】1997年 在日朝鮮人団体ツアーin韓国

 

韓国添乗のアナザーストーリーを軽く一つ。

 👇️本編コレ

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3日間のツアー中、2日目の夕方から最終日のホテルチェックアウト時間まで、お客さん方は自由行動になっていた。こういう時の添乗員は、次回の添乗のために現地情報を取り入れる時間に充てる、ようするにお勉強の時間だ。当時はインターネットのない時代だったので、「地球の迷い方歩き方」などの市販のガイドブックや、自分の足で現場の情報を得ていた。

ちなみに、新人の頃は仕事をアサインされたらポンと放り出される(添乗に出される)。後は自分自身で現地を調べたり、先輩添乗員にレクチャーを受けるくらいで、不安なまま出発していた。でもお客の前では「何度も来てますけど、ナニカ?」という引き攣れた余裕顔でいなければならない。

さて、この時は担当の現地ガイドが街を案内すると申し出てくれた。これは嬉しい!どの国でもそうだが、現地ガイドと仲良くなるとメリットが多い!

前回のブログで書いた、歴史史料館でツアー客とケンカしたのはこのガイドである。

 

いざ出発♪と街を歩き始めたとたん、そのガイドがアタシの腕に腕を絡めて来た。「ひぃ、まさかのレ○?」と、全くその気のないアタシは、ガイドに失礼なほど腕をふりほどいてしまった。

違うのだ。これが慣習の違い。この国はオンナ同士でも、まるで恋人のように腕を組んで歩くのが普通なのだという。これが友情の表現なんだと。そう言われると無下に振り払うことが出来ないので、なすがままのアタシ。(ちょっとイヤ)

 

今回のツアーには入っていない有名処の観光地を一通り見て周り、ガイドの愚痴も聞き、最後に韓国名物「垢すり」に行こうという話になった。

現地の人が行く「本場」の垢すりだ。おしゃれなエステとかスパというものとは全然違う。日本の銭湯みたいな感じで庶民的。

まず、信じられないくらいにアッツイ風呂に入る。熱湯風呂だ。「韓国人はこのくらい普通に入るよ。早く早く!」と誘う。(押すなよ、絶対!押すよ)その後、水風呂に入る。これを数回繰り返す。そうすることで肌がふやけてくる。

そして手術台のようなベッドに真っ裸で横たわる。これぞまな板の鯉。年季が入ったおばちゃんの垢すり人が、垢すりタオルやら何やらでワシワシこすってくれる。腕も足も背中も、そして恥ずかしい部分ギリギリまでワシワシしてくれる。ちょっとだけ痛い。でもなかなかの熟練技だ。そして出るわ出るわ、消しゴムカスのような垢が。ひと皮剥けたとはこのことだ。この死んだ細胞でもう一人のアタシが出来上がるのでは。

そして最後にキュウリのすりおろしを顔に塗ったくりパックまでもやってくれた。

これぞ韓国の下町の垢すりだ。

さすがにこんだけやれば肌のザラつきがなくなり、数日は肌の艶が良かった。

確かあの当時、1000円か1500円くらいでやってもらった記憶がある。物価の違いもありお手頃価格だった。

 

27年前って、日本と韓国はまだまだ文化交流が今ほどは確立していなかった時代だ。

2000年以降、「冬のソナタ」あたりでソロリソロリと交流し始め、「韓流」という言葉が出始めたのもこの頃だ。そして令和の今、韓国の若者がワンサカ日本を訪れている。近所のドン・キホーテのレジや飲食店は常に行列だ。(たくさんお金使ってね♡)

逆に日本の若者もK-POPや韓流ドラマに熱狂している。文化交流バンザイだ。

 

嗚呼、春になったら韓国へ旅に出るか・・・。(というか、先にブログ更新せいっちゅーねん)

 

~Fin~

【添乗】1997年 在日朝鮮人団体ツアーin韓国

この日出ずる国に外国人観光客がワンサカやって来ている。

Nipponの文化に触れてみたい、和食を食べたい、made in Japanのアレを買いたい、と言って頂いている外国人の皆様、日本国小市民代表として御礼申し上げます。どんどんお金を落として日本経済を回してチョーダイ!

そういう観光客を目を細めて見ていると、添乗員を生業としていた時のことを思い出す。

1997年、韓国への添乗だ。

それは、某県の在日朝鮮人で形成された「同包」の団体だった。人数は妻同伴の合計40名。

なので、パスポートは日本国のものではない。

そして出入国カードには「president」と記入すべく会社経営者の集まり、いわゆる日本で成功した方達だ。

    

ツアーは韓国3日間。

旅行会社も添乗員も、このような一個団体のツアーは、募集型のツアーよりも3倍は気を使う。

初日、国際線ターミナルで航空券を渡す際に名前を読み上げるのだが、朝鮮名って英語で書かれると読みづらいし、舌を噛みそうだ。

出入国カードの記入について全員を前に説明をするのだが、戸惑ったのが、同行の奥様方は日本語は流暢に話せるが、漢字の読み書きが出来ない方がいたということ。

戦中戦後のあの当時の日本では、在日朝鮮人の方にとって学校で勉強をする事は二の次で、生きて行くだけで精一杯だったのだろう。

1997年の韓国は、仁川国際空港はまだ開港しておらず「金浦国際空港」へ到着。その空港は、当時の大阪伊丹空港に似た感じで、規模もそのくらいの大きさだったように記憶する。到着ロビーで日本語ペラッペラの現地ガイド(女性)と合流。

 

当時の韓国(ソウル)の街は、近代的で日本にもよくある「都市」の風景だ。ちょっと車を走らせると田舎の風景になる。こういうところはあまり日本と変わらない。それに顔や体系も日本人とあまり違いがないため、本当にここは外国か?と思わせる。ただ、街の看板や標識がハングルばかりであること、そして車が右左反対走行であること、こういうので異国にいるんだなぁと感じる。

ソウルの中心地に入れば渋滞がすんごいし、みんな車の運転が荒いのでいつ事故を起こすかハラハラもんだった。

 

さて、このツアーは「統一展望台から祖国を偲ぶ」というのがメインだった。

日本と北朝鮮は、国交がないため日本からは簡単には行けない。なので韓国側から祖国を偲ぶ。

戦後、色々な事情があり、日本で生活することを選んだ在日朝鮮人御一行は、故郷が目の前にあるのにここから眺めるだけだ。泣いている方もいる。

御存じの通り、朝鮮両国は未だに休戦中だ。同じ民族なのに。日本でいえば、名古屋あたりを国境として、東と西とで戦争をするようなもんだ。

当時の統一展望台には、露天のお土産店があり、ゴザを敷いて手作り人形や、絵葉書、キーホルダーのような土産を並べ、地元の婆ちゃん達が売っていた。

アタシは、現地ガイドに通訳してもらい、おチャらけて婆ちゃん達を笑わせた。「こんなに気軽に話した日本人は初めてだ。」と婆ちゃんが言っているとガイドが笑う。開かれた令和とは違い、当時は日本人観光客も今ほど多くはなく、ましてや露店のお婆ちゃん達に話しかける日本人は少なかったのだろう。

      

次の観光は、歴史史料館だ。具体的にどこの史料館かは記憶がないが、朝鮮半島における歴史的な史料を展示している史料館だ。ここでは、現地ガイドが説明をする。

・・・んで、ここでひと悶着あった。

歴史的な史料を展示している⇒ 韓国人ガイドが韓国寄りな説明をする

北朝鮮出身者がどう思うか・・・想像してほしい。御一行は、史料の説明に一つ一つ反論する。現地ガイドは涙目だ。アタシも間に入りたいが、朝鮮語が全く分からない。

改めて申し上げるが、参加者は日本で成功した社長さん達だ。苦労をして会社を築き成功した人達だ。物申し方が凄まじい。

その御一行のオーガナイザーと相談し、途中でその史料館を出ることとなった。そもそもどうして行程にこの史料館を入れたのか!(旅行会社の担当者を恨む)

ホテルへ向かうバス車内でも喧々囂々の騒ぎであった。その現地ガイドもなかなかの強気な女性だったため収まらない。間に立つ添乗員(アタシ)も頼りないこと(トホホ)

帰国後、旅行会社の担当に報告(苦情)を申し出たのは言うまでもない。

当時、アタシもまだ若く、そして知識が不足していたのもあり、日本、韓国、北朝鮮の複雑な関係を理解しないまま添乗していたが、この年齢になってあの添乗の難しさを感じ入ることができる。

ツアーの参加者は、良い人がほどんどだった。奥様方も豪快で優しい(けど気が強い 笑)。今思い出してみれば、みんな凛とした人が多かったな。

あの当時、殆どの方は60歳代だったが今もお元気だろうか。

 

~ Fin ~

 

 

【5回目ワクチン】副反応経過記録 

夏なのか秋なのか分からない日々が続いた。

雨乞いが必要か?と思わせるほど雨に恵まれず、お肌は乾燥でバリバリ。こうなると、間違いなくアレが流行り出すだろう。

一世風靡した「新型コロナ感染症」だ。

と、思いきや3年以上の無菌状態であったニンゲン界ではそれだけではなく、いろんな感染症が流行しているらしい。

とりあえず、両親が高齢であるため、帰省した時に都会からコレを持ち帰ってはいかんと思い、5回目のワクチン接種(全ファイザー製)をした。

   

11月1日 朝1番に予約が取れたのはラッキー。朝食はいつも通り、納豆ご飯に具沢山みそ汁を食し、水分もたっぷり目に補給してお注射に備えた。

9:15頃 60歳代前半、白髪の優しそうなセンセーと軽く会話をしている約3秒で接種終了。針刺さった?というくらいに肌感覚が全くない。なかなかの熟練だ。

その日は通常勤務、ワクチン打ったよ~、と聞かれてもいないのにわざわざ話題を持ち込む面倒なヤツを演じた。

夕方16:00頃、注射した方の肩が軽くだるさを感じる。このだるさは時間が経つに連れてジワジワ痛みに変わる。筋トレをした次の日に出る筋肉痛にも似た痛み方だ。

帰宅後、夕食 この日は焼きそばとビールという、大阪に赴任していた時と同じメニューだ。いつも通りうまい!半熟卵を乗せるのがたまらなく好き。マジ好き。

22:00頃 風呂に入ろうと、Tシャツを万歳する体制で脱ごうとすると、左腕がかなり痛い。この痛みは、自分では完治したと信じ切っている「五十肩」と少し似ている。風呂上りは水をたっぷり目に飲む。

23:30頃 ベッドに入る。ワンツースリーで寝付く。

01:00頃 体の異変に気付き、目が覚める。異変とは「寒さ」だ。このガタガタ震える寒さは「お熱」が出る前兆だ。

ワクチン接種をして16時間後にこの副反応が出始めた。熱を測ると、7度9分。まだこれから熱が上がるのだろう。また、腕の痛みもMAXで寝返りができない。(やはりこの痛みは五十肩に似ている)それから自宅にあった「カロナール」を水多めに飲む。

飲んで安心したのか、はたまた発熱による体力回復のために身体が休息を求めているのか、またもや3秒で寝付く。

 

朝、いつもの時間にアラームが鳴る。

熱は? ない。

むしろ、空腹さえ感じる。寝ている間に、身体が熱に耐えワクチン反応に耐え、頑張った証だろう。まさしく、アニメ「はたらく細胞!!」の世界だ。

 

ワクチン接種して熱出た、だけのブログが1000文字を超えてしまった。

 

~Fin~

 

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【愛の劇場】89歳と86歳のちくわ(後編)

⇒前編からの続き

【愛の劇場】89歳と86歳のちくわ(前編) - つぶやきよりチョイ長め

 

この入院騒ぎで、いろいろと考えさせられることがあった。親って大事だよね、という定番の感情だけではない。

年齢を重ね皺だらけても、母は「女性」なんだなということ。

その病棟は、起床したら寝間着から普段着に着替えるようになっており、入院中でも患者をだらけさせず、少しの緊張感を持たせる体制になっていた。母は髪を整え、薄っすら化粧をし、まずまずの服に着替え、アタシら面会人を迎えた。

そういうアタシは、マスクの下はドスッピンだ。母のこういうキチンしたところは見習わないといけない。年を取っても「女性」であることを忘れてはいけない。

 

10月中旬、そろそろ退院かという話が出始める。退院後のリハビリを通院にするか、又はデイケアに通うかという話になった。
母は言った。「退院したら暫くはお父さんと一緒に過ごしたい。デイケアにお世話になるのは少し日を置いてからにしたい。」と。
これを86歳の母は恥ずかし気もなく言うのだ。

なんか、これって両想いやん・・・。

両親は見合い結婚だった。なので恋愛感情たっぷりで結婚したわけではない。

それが、この騒ぎで二人の愛情というか、絆というか、二人にしかない何かの感情が湧き出て来たような気がしてならない。

アタシは、親の「男と女」という部分を見たくないと思っていたし、見た事もなかった。「男と女」ではなく、「お父さんとお母さん」であって欲しかった。

それが、今の二人の愛情の湧き出し方は「男と女」を超えた「熟した絆」とでも言おうか、なんとも言えない微笑ましさがあるのだ。

    「バレンタインに使われやすいハート」の写真

結局、退院は11月上旬になった。

実は一度、回復状況が良かったので退院を早めるという話があった。でも延びた。

延びた理由は、腰椎の容態が悪いという訳ではなく、入院中に安静にし過ぎて足の筋肉が減り、足元がおぼつかなくなったからだ。

そこで、足のリハビリを強化しようというわけだ。

一度退院が決まりそうな時は、父の顔がパァと輝いた。そして退院が延びた時は、またまた肩を落とした。⤵(←この記号のようなガッカリの仕方)

入院中は、母なりに日々のリハビリを頑張ったようで、入院する以前のレベルまで歩行ができるようになった。

そして病院の食事も効果があったのだろう。食事と筋トレ(リハビリ)はやはり繋がっているんだなぁとつくづく思う。

 

あれから無事に退院し、また日常が戻った。

以前、父に「お母さんが退院したら、お父さんがしっかり守らなよ!」と言うと「ガッテン承知の助」と昭和的な回答が戻って来たので大丈夫だろう。(軽く「オレ様」を感じたのは気のせいだろうか?)

母に聞いても、父はかなり気を使ってくれているようだ。

 

 

 

 

 

が!

 

先日、実家へ電話を入れると、何やらケンカをしたらしい。

母が、父が好きな黒いちくわ(いわし入り)ではなく、白いちくわ(たら入り)を買ってきた、というしょーーーーーーーもない諍いだった。

 

 ~ Fin ~

 

 

【愛の劇場】89歳と86歳のちくわ(前編)

母が入院した。
高齢者によくある「腰椎圧迫骨折」だ。

この話は父と母のしょーーーーーもないケンカから始まったものだ。


ケンカの原因は「ちくわ」だ。
ちくわの賞味期限が2~3日前に切れていて、父は「そんなもんは食べん!」と言い、母は、「パーシャルに入れていたから大丈夫!」という、マジでしょーもない諍いがあったらしい。
冷蔵庫の前で、あーだこーだケンカになり、父が母の肩を押したことにより、片足に脳梗塞の後遺症がある母が転んだ、という経緯だ。


肩を押した、と言っても漫才師が「ナンデヤねん」と相方を裏手でツッコむ程度の緩さだったらしいが、それでも母は踏ん張れず転んだという。

そう言う訳で、9月から母の入院生活が始まった。
最初は、ベッドから起き上がるのにヒーヒー言っていたが、コルセットのお蔭か、薬のお蔭か分からないが、ひと月ほどで痛みが無くなったようだ。

腰の痛みは無くなったのだが、年寄りが入院するとあまり活動しなくなるので、日に日に足の筋肉量が減り歩けなくなるパターンが多い。なので相当リハビリをしっかりしないと寝たきりになってしまう。


ちなみに、以前のブログに母の痴呆が始まった、と書いたが、あれからは進行していない。

あの後、補聴器を付けるようになり、それ以降は以前のハツラツさが戻ってきたようにも見える。(夏に元気がないように見えたのは、難聴が原因だったのか?)

 


母の面会に行くと、割と元気で非日常を楽しんでいるようだった。

食の細い母にとって、病院の食事の種類の多さに戸惑っていたようだが、骨や筋肉のために無理にでも食べるようにしていたらしい。少し顔色が良くなっているようにも見える。

 

さて、母が入院してからの父だが、まるで人が変わったように元気がなくなった。

自分のせいで母を骨折させた事と、その事をアタシら子供に責められるわで、マンガのようにションボリしていた。
そして、なんと言っても家に話相手がいないという寂しさもあるらしい。もちろん、家族はいるが父にとって母はオンリー1なのだ。

急遽帰省したアタシに父はこう言った。「さびしい・・・」と。
「こんなになったのは、お父さんのせいだから仕方ない!」とホンネをぶつけると、「もうそれを言うな。オレの方が死んだ方がましだ。」と言う。


父は昭和初期生まれ、しかも男4人兄弟の三男坊で育ち、「オレ様」で過ごして来ていた。15年ほど前に母が脳梗塞で入院した時も、あまりそれと変わらずにいたが、今度ばかりはオレ様の影はなくなった。

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来年90歳になる父は、車も普通に運転する。耳が少々遠いが、とっても元気な89歳だ。
母の面会に行くと、父はとても嬉しそうだ。その嬉しさを隠そうともしない。帰る前は母の腕や顔をさすり、手を握ってから帰る。病室を出る時は、必ず振り返る。
そんな愛情を見せる父親をこれまで見た事がなかった。相当、オンリー1である母が恋しいのだろう。

 

入院中、アタシは母とよく電話をした。その電話で、父のションボリした肩の落とし方と、母への恋しがり方を面白おかしく話して聞かせた。母は少しテレなからも嬉しそうだった。

 

 後編へ続く ☟

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📩退職する西田君・愛を社内日報に書いて全社員に一斉送信した話

皆さんの会社、日報、週報、月報って習わし、まだあります?

管理者にとっては、これがあると個々の仕事の進捗状況が管理しやすいだろうし、こちら側も日々の反省と今後の展開を改めて確認できるので、営業日報なるものはきっと良い方法なのだろう。(知らんけど)

実はこのアタクシ、どの会社に勤めてもアタシが書いた日報は評判がよかった。
解りやすいとか、しっかりした内容だとかのレベルではなく、ただ「面白い」という理由でだ。

進捗状況を堅苦しい用語で報告をする、といったようなド定番のみならず、営業先での出来事や担当者の様子、また派遣スタッフの派遣先での仕事ぶりなどを「山野 節」で書いていたからだろう。

なので、上司の上の上のやんごとない人達(役員)も、日々アタシの日報が送信されると一番に開いて見る、というほど上層部で有名だった。
「日刊 山野」と名付けられたくらいだ。

さてタイトルの件、現在より2つ前の会社での話。
アタシは転職が多いという話はチョイチョイ書いてきた。
この話は「働き方改革」という言葉が世に出る前のこと。


転職先は、アタシより年下の上司や社員が多かった。(そりゃそうだ)

その会社に「西田君(仮名)」という当時28歳の男性がいた。この西田君、元ドヤンキーで中卒(高校中退)だった。バイトを転々とし、25歳でこの会社に入ったという。
そんな経歴の西田君がこの会社に入れた理由は、「何でもやります!」「気合しかありません!」と面接の時に何度も何度も繰り返し訴えたからだという。

アタシがこの会社に転職したての頃、この西田君がアタシの教育係(?)として付いてくれた。最初の頃、アタシは西田君を下に見ていた。中卒でヤンキーだったからではない。社会人としての常識がなかったからだ。

アタシは、彼が持っている曲がった常識を指摘し注意した。そうなると西田君も先輩としてのプライドが出る。そして二人は険悪になる。


それでも二人セットで営業をした。

飛び込み、テレアポの件数のノルマがある。

アタシらは年齢差があるので逆に通じやすかったのか、幸いなことに営業活動がうまく行き業績が上がって行った。そんな中、二人で飲みに行く機会も増えた。話してみると、アタシらは意外と気が合う。笑いのツボも同じだった。
そして西田君の人となりを好きになっていった。(LOVEじゃないよ)

横でこの人を見ていると、営業先の担当者に信頼されている(可愛がられている)、

若いながらも他の社員に頼りにされている、

失敗してもへこたれない精神、

そして、お母さんが早くに亡くなって、バアちゃん子で優しいところ。

ヤンキー時代は、相当な悪いことをやってて「自分はクズでした」という言葉を気持ちよく吐き出す素直さ。

兄は高校教師、弟は高級公務員なので、実は西田君も地アタマは良いのだ。そして誰にでも分け隔てなく接するこの人は、会社内でも人気者だった。

そんな日々が続いたが、ある日、西田君が退職するという。理由は、詳しくは言わなかったがだいたい分かる。
この会社はブラックに近い、グレーだったからだ。

ま、世の会社なんてそんなもんだろう。当時、昭和産のアタシにとってはサービス残業パワハラなんてお茶の子だった。


しかし、若い西田君は違う。もう「何でもやります、気合です!」と言っていた、あの面接時の西田君ではない。中卒でバイトしか経験がなかった彼も「知恵」が付いたのだろう。元々アタマの良い人だから、この会社の矛盾が分かり始めたのだ。

西田君が退職する。

残念に思う気持ちと、この伸び盛りの若人はこんな会社にいてはいけない、という送り出す気持ちとが交差する。

 

 

少し会社に襟を正してもらおうと、この企みを考えたのだ。

 

 

そして日報に、西田君が退職することでどれだけマイナスになるのか、クライアントに信頼され、また社内でも好かれていたかを、会社に対するイヤミの言葉を含め、2000文字ほどの文章に綴り、下書きに置いた。

 

西田君の最終出勤日。

18時ジャストに一斉送信した。

通常日報は上役に送るのだが、この日は全社員に送った。

社内はザワついた。

しかし、やんごとない人達(役員)はダンマリだった。

 

 

そして主役の西田君はというと

あちらの席で「苦笑い」をしていた・・・。

 

 

🎂誕生日を迎えたとて、レベルアップしているわけじゃない。

つい最近、誕生日を迎えた。

「おめでとう、アタシ」

そして、産んでくれた母に感謝!

アタシは、帝王切開で生まれた。

なんと3950グラムの大きさだった。

 

そして現在、

丈夫なからだを持ち

欲は無く

決していからず 何時も静かに笑っている。

あらゆる事を自分を勘定に入れずに

良く見聞きし判りそして忘れず   に育った。

雨ニモマケズ 抜粋

今のところ健康診断で引っかかることなく元気だ。

 



中身(精神)はどうか?

中学2年生の頃と変わらない。

中2の精神に「経験と少しの知識」が付いただけだ。

 

アタシを含め、最近のオトナ達が幼稚に感じる。

いいオトナのアタシも、アニメが好きだの、

あのマンガが良いだのと言っている。

ちょっと前の大人達はもう少し成熟していたように思うがどうか?

幕末に生きた坂本龍馬なんて亡くなったのは31歳だ。

 

有名な孔子の言葉

『私は、

十五歳のとき学問に志を立てた。
三十歳になって、その基礎ができて自立できるようになった。
四十歳になると、心に迷うことがなくなった。
五十歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。              六十歳になると、人の言うことがなんでも素直に理解できるようになった。
七十歳になると、自分のしたいと思うことをそのままやっても、人の道を踏み外すことがなくなった』 孔子論語」より

これ、2500年前に生きていた人の言葉。

当時は、70歳まで生きた人は「仙人」の域だったのではないだろうか。

そうなると、この孔子の言うことは説得力のある言葉だっただろうし、有難かっただろう。

でも今や、人生100年時代。

2500年前の人物から見たアタシは、まだ赤子だ。

アタシのような未成熟の者が「天が自分に与えた使命が自覚できる」まで、まだまだ年数がかかりそうだ。

 

 

 

🏠 帰省日記( 心のまま編)

☞前回、帰省日記(日々是好日 編)の続き

【心配】

5月の大型連休に帰省した時、母が認知症の初期症状が出ている事をブログに書いたが、やはりこの帰省中にも、そう思うことが度々あった。

dokujyolife.hatenablog.com

実家の冷蔵庫の中を見ると同じ物がいくつもある。賞味期限切れの物も多い。買った物を覚えていないのだろう。

また、財布の中にある小銭がやたらと多い。レジで慌てているのか、または計算が出来ずに毎回札で支払っているのだろう。

そしてお盆期間中は、お供え1日3食を作るのだが、1食分3種類が覚えられず、何度もアタシに訊く。

なますを作りながら、母はアタシに「時々、分からなくなる時がある」と言った。

 

母は5月に帰省した時より難聴に拍車がかかっており、こちらから大きな声で話さないと聞こえない。もっと優しい言葉を掛けてあげれば良いのだが、アタシも大きな声を出さないといけないものだから、つい感情的に言ってしまう。

そして、「前はもっとハツラツとしていたじゃないか、もっとしっかりしてよ!」と母に向かって思う。アタシはひどい娘だ。

また、脳梗塞で右手足に力が入りずらく、家の中でも杖をついて歩いている。もう、ヨボヨボだ。

そんな状態でも母は、お供えを作る。台所に立つ母は、また小さくなっていた。

親戚の集まりでも、耳が遠く皆の会話がほぼ聞こえていない。なので感情が薄い。今、振り返って、帰省中に母の笑った顔は何回見ただろうか?いや、ほどんど笑っていない。

風呂上がり、着替えをしている母がボタンを留めながら、遠い目をしていたので「何を考えてんの?」と聞くと、母は「あれもこれもしないといけない、歯も磨かないといけない、もう死んだ方がまし」と言った。

 

母も身体や頭の衰えを感じ、心まで参ってしまっているのだろう。「死」という言葉を発した母を前に、娘のアタシはどうしたらいい・・・。

 

【墓参り】

母の本家は、後継ぎが大阪にいたが早く亡くなっており、墓じまいをし、永代供養をしてもらっている。

母には姉がいたが、30年以上前に亡くなっている。高台の見晴らしの良い場所に眠っている。母は墓までの坂道がシンドくて、兄に背おられて登った。二人の後ろ姿を見て、アタシは泣きそうになる。そして、母は兄の背中で「もう来年は来れないだろう」と、ポツリと言った。

 

空と自然の商用利用可能なフリー写真素材

【写真】

手の届かない天袋の整理をした。その天袋に古びたアルバムがあった。ほとんどが白黒写真で、戦時中の写真もあり、出征記念の写真も見つかった。その人は誰なのか分からない。

そして、結婚前の父と母の写真もアルバムにキレイに収まっていた。また、兄やアタシを抱いて、大きく口を開け満面の笑みの母の写真もあった。今は、こんなひまわりのような母の笑顔が消えた。

 

お母さん

お母さん

お母さん

 

8月15日、あっと言う間の帰省。

「じゃあ帰るね」と言うと、

母は「帰るじゃない、行くと言いなさい。ここがあんたの家なのだから」と言ってくれる。

 

心配で、心配で、後ろ髪をひかれる思いで実家を後にした。

 

そして、またアタシの日常が始まる・・・。

🏡 帰省日記(日々是好日 編)

8月11日(金)

夕方、実家に帰着。

刺身、寿司、鉢盛などで歓迎を受ける。

父親と酒を飲むのは3か月ぶり。美味⤴

風呂上り、外に出て空を見上げると、近眼のアタシでも分かるほどに星が一面に輝いている。ちょっと前からこの辺りは、新興住宅地になっており時代とともに変化があるが、それでも子供の頃に見た星空と変わらない。

 

8月12日(土)

普段、手が届かない所の掃除や、押し入れの整理をする。

中森明菜薬師丸ひろ子・シブガキ隊・小泉今日子菊池桃子など、あの頃のアイドルがたっぷり載った「平凡」「明星」「近代映画」を発見!お宝、お宝~♪

さらに、タッチ、Dr.スランプ、セイントアダムズ(庄司陽子)等々、アタシのマンガコレクションを発見!整理どころではなくなった。

そして、御先祖様のお迎え準備のために、地元の大型スーパーに買い物へ行く。

この辺りの野菜は安い!アタシの上腕と同じ太さのゴーヤーが100円!また肉・魚その他もろもろ安い!ここは同じ国なのか?

 

8月13日(日)

昼頃から、親戚が集まり飲み食いする。

昔から親戚の集まりの時は、瓶ビールをケース買いするのだが、缶ビールよりも瓶ビールが美味いと感じるのはアタシだけか?

そして、親戚の子供らが大きくなっているのには驚く。

そう言えば子供の頃、母が「服がすぐ小さくなる!」って言っていたが、アタシはアホなので、服の方が縮んでいくんだと思っていた(笑)

8月14日(月)

宗派と地域によって違いがあるようだが、浄土宗はお供えのメニューが決まっており、13日から15日まで毎食作った。

なのでお盆期間中は、お外でバカンス♡なんてことはしない。

果物、落雁、団子、和え物、餅、なます、そうめん、お水、お茶、ご飯、他もろもろ。

ちなみにご飯は、立ち上がる「湯気」を召し上がるそうだ。

 

8月15日(火)

12時少し前に、菩提寺の住職が来宅。

予定時間より早めに来られたので、ステテコ一丁の父がアワアワしていたのにはワロタ。

そして読経が始まる。アタシは一番後ろで手を合わせる。

斜め後ろから父を見ると、慌てて服を着たので、ズボンのファスナーを閉め忘れていたようで、上にあげているところが目に入り、またワロタ。

読経中、正午になり、地元の町内放送が「終戦」の黙とう開始を知らせる。それこそ空襲警報か?と思わせる音が鳴り響く。読経中なのでなかなかの騒々しさ。

 

また、アタシは読経が終わったタイミングで住職にお茶とお布施を差し上げるという重役を担っていたので、なんやかんやで読経に集中できなかった。(爺婆ごめん)

夕方、御先祖様をお送りするというイベントがあるが、アタシは帰る時間となり、これにてドロン🥷💨

 

帰省日記( 心のまま編)に続く ☟

dokujyolife.hatenablog.com

 

 

 

続:8月を考える。

添乗員は、いろんなお客さんに出会う。

アタシは、何千人、いや万の単位になる人々と一緒に旅をした。

 

そんな中、鹿児島を訪ねる団体ツアーに当時80歳代後半のお爺さん(仮名:田中さん)がいた。

この田中さん、面白い方でアタシにチョイチョイちょっかいを出して、笑わせようとしてくれる、可愛らしい方だった。

そんな田中さんに、こんなエピソードがあった。

バスで移動中、田中さんが「添乗さん!ちょっと止まって!」と騒ぎ出す。

「どっどうしました!?」「入れ歯を窓から落とした」と言うのだ。

周りは驚いたのと、しょーもなさで大爆笑!

アタシはバスを降りて、200メートルほど走り、上の顎から外れた総入れ歯を拾いに行った。

25年くらい前の団体ツアーは、バス車内は禁煙ではなく「節煙」で案内していた。

どうやら田中さんは、タバコを吸うために窓を開けていたのと、車窓から神社の写真を撮ろうとして入れ歯を落としたらしい。

さて、そのツアーの行程に「知覧特攻平和会館」が入っていた。

太平洋戦争で知覧飛行場から出撃する「特攻隊員」に関する資料や、当時の「零式戦闘機」などが展示されている資料館だ。

この資料館を1時間半ほど自由見学してもらい、各々時間までに観光バスまで戻って来てもらう、という段取りだった。

資料館を見た後、お客さんは泣きながら戻って来る。ここは1日いても時間が足りないという。それでも時間内にきちんと戻って来られた。

・・・田中さんを除いて・・・。

こんな時添乗員は、お客さんを探しに行くのだが、この資料館は中々の広さだ。

館内放送を掛けてもらい、アタシは迷子の客を捜し回る。

 

刻々と時間は過ぎるのに、田中さんは見つからない。

やっと見つけたのは、特攻隊員の遺影や遺品を掲示された場所だった。

正直、他のお客さんのご迷惑にあたるので、アタシは少しイラついていた。

でも、田中さんの後ろ姿を見た時、アタシは何も言えなくなった。

田中さんは、背中を丸め、一枚の遺影を撫でながらむせび泣いていたのだ。

それでも田中さんに時間が過ぎている旨を伝えると「すまんねぇ」とおっしゃる。

その撫でている遺影の隊員は、田中さんの友達だったという。

自分も出撃する予定だったが、8月15日を迎え逝けなかった。自分だけが生き残った。

目は真っ赤。80代の肌に深く刻まれたシワに涙が伝う。鼻水もタラタラ流しながら、遺影を撫でている。

 

特別攻撃:特攻】

爆弾を装着した戦闘機で、敵の艦隊へ体当たりをして沈める。パイロットは必ず死ぬという条件の作戦だった。

こんな狂った戦法を考え実践した当時のこの国と、それを良しとした国民への一種のマインドコントロールは、令和の時代では理解出来ない。

この知覧特攻平和会館には、出撃する若者の遺品が掲示されている。

母親への手紙には、達筆でこの国への志と母との決別をしっかりした文章で書き綴っている。

また、父親から妻・子供たちへの最後の手紙。セピア色に変色した手紙には、家族や恋人を思う気持ちが痛いほど伝わってくる。

 

田中さんもこういう人たちの一員だった。終戦から何十年も特攻隊員として「生き残ってしまった」という思いを引き摺りながら生きてこられた。

 

もうこのような辛い思いをする人たちを作ってはいけない。

 

www.chiran-tokkou.jp

 

 

✏️ 8月を考える。

皆さんは、修学旅行の出来事を覚えておいでだろうか?

アタシは、中学・高校の修学旅行よりも、小学6年生の時に行った「長崎」が忘れられない。

長崎市内にある「長崎原爆資料館」は、あの頃のアタシにとって倒れそうなくらいにインパクトが強かった。
真っ黒の御遺体の写真
同学年くらいの子供の焼きタダレた皮膚
半裸状態で、剥がれた皮膚を引き摺りながら彷徨う被爆者たちの絵

この施設なりに色々と配慮のある展示物だったはずだが、子供にとっては目を開けていられない程に強烈なものだった。

~原爆について~
広島と長崎の原子爆弾のタイプが違う。
広島:ウラン
長崎:プルトニウム

破壊力は、長崎のプルトニウムの方が強い。しかし、爆心地が山に囲まれていたため、爆風が山を越えず、被害が広がらなかった。
逆に、広島は平野であったため、熱線・爆風が行き渡り被害が広がってしまった。


イメージ的には、弾が地上にドンと落ちて破裂するというように思っていたが、
原爆は、地上数百メートルの上空で炸裂して、熱線・爆風・放射線が地上を襲う。
原爆の直下では3000~4000度にも達したとのこと。
こうなったら一瞬で死に至る。

 

   

 

そしてアタシは大人になり、添乗で長崎を訪ねることになるが、平和公園へ行くとなぜか急に涙がホロホロ流れてしまうのには参った。

平和公園の「平和の泉」には、

『のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくてとうとうあぶらの浮いたまま飲みました』と、少女が書いたといわれる石碑がある。

この少女の希望も、夢も、将来も何もかもなくなってしまった。どれほど無念だっただろう。

 

戦争は繰り返さない、この国ではそう祈念している人がほとんどなのに、他の国は違う。

この惨状を世界中に伝える事を止めてはいけない。

戦争は、絶対反対である。

 

8月6日、8月9日に合唱

 

dokujyolife.hatenablog.com

 

www.nhk.or.jp