つぶやきよりチョイ長め

⭐経験談がメインです🌼

続:8月を考える。

添乗員は、いろんなお客さんに出会う。

アタシは、何千人、いや万の単位になる人々と一緒に旅をした。

 

そんな中、鹿児島を訪ねる団体ツアーに当時80歳代後半のお爺さん(仮名:田中さん)がいた。

この田中さん、面白い方でアタシにチョイチョイちょっかいを出して、笑わせようとしてくれる、可愛らしい方だった。

そんな田中さんに、こんなエピソードがあった。

バスで移動中、田中さんが「添乗さん!ちょっと止まって!」と騒ぎ出す。

「どっどうしました!?」「入れ歯を窓から落とした」と言うのだ。

周りは驚いたのと、しょーもなさで大爆笑!

アタシはバスを降りて、200メートルほど走り、上の顎から外れた総入れ歯を拾いに行った。

25年くらい前の団体ツアーは、バス車内は禁煙ではなく「節煙」で案内していた。

どうやら田中さんは、タバコを吸うために窓を開けていたのと、車窓から神社の写真を撮ろうとして入れ歯を落としたらしい。

さて、そのツアーの行程に「知覧特攻平和会館」が入っていた。

太平洋戦争で知覧飛行場から出撃する「特攻隊員」に関する資料や、当時の「零式戦闘機」などが展示されている資料館だ。

この資料館を1時間半ほど自由見学してもらい、各々時間までに観光バスまで戻って来てもらう、という段取りだった。

資料館を見た後、お客さんは泣きながら戻って来る。ここは1日いても時間が足りないという。それでも時間内にきちんと戻って来られた。

・・・田中さんを除いて・・・。

こんな時添乗員は、お客さんを探しに行くのだが、この資料館は中々の広さだ。

館内放送を掛けてもらい、アタシは迷子の客を捜し回る。

 

刻々と時間は過ぎるのに、田中さんは見つからない。

やっと見つけたのは、特攻隊員の遺影や遺品を掲示された場所だった。

正直、他のお客さんのご迷惑にあたるので、アタシは少しイラついていた。

でも、田中さんの後ろ姿を見た時、アタシは何も言えなくなった。

田中さんは、背中を丸め、一枚の遺影を撫でながらむせび泣いていたのだ。

それでも田中さんに時間が過ぎている旨を伝えると「すまんねぇ」とおっしゃる。

その撫でている遺影の隊員は、田中さんの友達だったという。

自分も出撃する予定だったが、8月15日を迎え逝けなかった。自分だけが生き残った。

目は真っ赤。80代の肌に深く刻まれたシワに涙が伝う。鼻水もタラタラ流しながら、遺影を撫でている。

 

特別攻撃:特攻】

爆弾を装着した戦闘機で、敵の艦隊へ体当たりをして沈める。パイロットは必ず死ぬという条件の作戦だった。

こんな狂った戦法を考え実践した当時のこの国と、それを良しとした国民への一種のマインドコントロールは、令和の時代では理解出来ない。

この知覧特攻平和会館には、出撃する若者の遺品が掲示されている。

母親への手紙には、達筆でこの国への志と母との決別をしっかりした文章で書き綴っている。

また、父親から妻・子供たちへの最後の手紙。セピア色に変色した手紙には、家族や恋人を思う気持ちが痛いほど伝わってくる。

 

田中さんもこういう人たちの一員だった。終戦から何十年も特攻隊員として「生き残ってしまった」という思いを引き摺りながら生きてこられた。

 

もうこのような辛い思いをする人たちを作ってはいけない。

 

www.chiran-tokkou.jp