タイトルの件、中学生の頃の苦ーーーい思い出だ。
アタシは、アタマは悪いが割と運動神経は良い方だった。
当時、ソフトボールを初めて握り、バットを振ったのも初めてだった。
生まれ持っての左ききで、この競技ではいろいろと有利だった。
最初、皆が右側のバッターボックスに立つので、アタシもそうするもんだと右で打つと、なんか上手くいかない。監督は「左でやってみ」と言われ試しに左で打って見るとパカパカ打てた。
なので、1年生の時から左利きであることに期待され、監督は目に見えてアタシをしごいた。
アタシもその期待を肌で感じていたので頑張った。
レギュラーになったのは、2年生になってから。
2年生レギュラーは2人だけで、ユニフォームも着せてもらえ誇らしかった。
そしてアタシは、2年生で3年生エースの控えピッチャーとして抜擢された。
後輩からも「次期エース、かっこいい」なんて言われ、チヤホヤされた。
そう、2年生までは良かったのだ。
中体連が終わり3年生が引退した頃、他のメンバーがドンドン上手くなって、アタシとあまり変わらないくらいに上達した。
更にこの頃になると、第二次性徴期で体格の差が出てきた。
アタシは小柄でやせ型、体力がなかった。
左投げ・左打ち その価値はなくなった。
そうなると練習も力が入らなくなった。
それから、アタシらが中心メンバーになり、最初の大会でメンバー発表があった。
「ファースト/ 3番打者」
アタシは、背番号「1」は貰えなかった。
このチームのエース選抜から落選した。
貰えたのは背番号「3」ファースト兼リリーフだった。
ファーストはベースに足を着けた状態で捕球しなければならないので、左ききは優位だ。
また1・2塁間の打球を処理するのにも左利きは便利なのだ。
結局、監督は(チーム)は、力のない左ピッチャーとして使うより、ファーストと兼任のリリーフに決めたのだ。
悲しかった。くやしかった。エースで活躍したかった。
エースの子を妬んでも仕方ないのに、その子に優しくなれなかった。
あれから数十年経つが、社会に出てこれよりもっと悔しいことあっても泣かないのに、未だにこの事を思い出すとちょっと泣く。
これが、当時15歳のアタシのホンネだ。